第8話 王根の水

黒い雨が、水面から天井へ落ちていた。

巨大な水槽は王城の土台そのものを抱き込んでいるらしく、石壁の奥まで暗く続いていた。天井から降るはずの雨は、黒い筋になって水面へ触れ、そのまま上へ吸い戻されていく。白い根が壁を締めつけ、黒い根がその間を縫う。四人のいる古い足場は、脈を打つように、きしんだ。

中央の黒い水の下で、何かがゆっくり動いている。

ミアは足元の板目を見た。腐った箇所だけが鳴っているのではない。水槽の底から伝わる力に、足場が合わせて震えていた。

根に触れれば分かるかもしれない。だが、触れた途端にこの足場が抜ければ、見つけたものごと水へ落ちる。

ミアは薬草袋の口を指で押さえ、白根と黒根が絡む場所を見上げた。

「根。流れを見る。リゼット、腕を支えて」

「ミア、足場が鳴ってる」

ガルドはすでに水槽の縁へ寄り、石壁と足場のつながりを目で追っていた。傷だらけの丸盾を腕に留め、麻縄の端を確かめる手つきが早い。

「見るなら俺が先に退路を見る。触るのはその後だ」

ミアは頷いた。手掛かりを急ぐ気持ちはあった。けれど、この場所では一歩先へ出ることも、引き返せることと引き換えにしなければならない。

「ガルドは退路を見て。戻ったら、リゼット、腕を支えて。私は根に触れて見る」

「ガルドさん、退路の確認をお願いします」

帳面を厚手の上着の内側にしまいながら、エドガーが言った。眼鏡の奥の目は水面ではなく、足場の継ぎ目を追っている。

「流れが分かれば、記録すべき順序も定められます」

ガルドは返事の代わりに、石壁際の細い通路まで歩いた。板を踏むたび、彼の重みで足場が低く呻く。やがて彼は、崩れかけた支柱の向こうに、辛うじて残った渡り場を見つけたらしい。短く手を上げた。

リゼットがミアのそばへ来る。短い黒髪の先から、黒雨の冷たい雫が落ちた。彼女は何も言わず、ミアの腕を両手で支えた。剣の柄にはまだ触れない。まずミアが根へ届くことを優先している。

ミアは一度だけ深く息を吸った。薬草袋から指先ほどの葉を取り出して揉む。青く苦い匂いが立ち、黒雨の金気を少し遠ざけた。

白根は石より硬く、冷たかった。黒根はそのすぐ脇で、ぬるく脈打っている。

ミアは両方が交わるところへ手を当てた。

視界が灰色に裏返った。

水槽の水面は、ただの水ではなかった。黒い雨も、天から落ちるものではない。もっと下、水槽のさらに奥深く、見えない底に沈んだ何かが灰を吸い上げている。灰は水と混じり、根の間を巡り、逆さの雨となって城の上へ戻されていく。

城の内部を満たすためではない。

外へ出さないために。

地下の灰は、王城の中を巡らされていた。黒雨は漏れ出した災いではなく、閉じ込めるための流路だった。

ミアの指が震えた。黒雨を止めればいい、とだけ考えていた。けれど、止め方を誤れば、ここに留められているものまで外へ放つかもしれない。

流れが強く脈打った。彼女の腕が根の側へ引かれる。

リゼットの手がすぐに締まった。ミアを引き戻す力は荒くない。それでも、根から離すには十分だった。

視界が元に戻る。黒い水面が揺れ、天井へ昇る雨が細く散った。

ミアは濡れた手を見た。灰は指に残らず、水滴だけが皮膚を冷やしている。

「黒雨。上から落ちてない」

彼女は水槽の底を指した。

「下から吸い上げてる。城の上へ戻してる。地下の灰を、外へ出さないために」

言葉にすると、喉の奥が少し痛んだ。

ここは墓ではない。百年前に滅んだ王国が残した、まだ働いている檻だ。そして自分たちは、その檻のいちばん深い場所に立っている。

ミアが根から手を離した直後、足場の端で石が砕けた。

乾いた破裂音のあと、黒い水が跳ね上がる。水滴が肌に触れるより早く、リゼットが前へ出た。

「ミア、腕を支える。ガルド、固定を頼む。エドガー、その間に脈動を数えて」

声は低く、迷いがなかった。

ガルドは頷き、傾いた支柱へ駆け寄った。麻縄を石の残った出っ張りへ回し、丸盾を支柱と肩の間に挟む。太い腕が軋む木材を押し返した。

リゼットはミアの腕を支えたまま、もう片方の手で銀灰の長剣の柄を握った。剣を抜くことはしない。ただ、剣に宿る銀灰を薄く広げるように、崩れた縁へ意識を向ける。

落ちかけた石が、彼女たちの頭上で一度止まったように見えた。完全に崩落を止める力ではない。それでも、調べるための短い間を作るには足りた。

水面の下から、どくん、と響く。

一度。

間を置いて、また一度。

ミアは自分の胸に手を当てた。怖さのせいで速くなった鼓動とは別に、足裏から上がってくる重い拍子がある。水槽の底のものは、四つに分かれた音を、同じ間隔で打っていた。

エドガーは濡れた石の上に片膝をつき、帳面を開いた。紙を黒雨から庇いながら、筆記具を走らせる。数え、耳を澄ませ、また書く。その手は急いでいるのに、行を飛ばさなかった。

やがて彼は自分の胸へ指先を置いた。次に、近くのミア、リゼット、そして支柱を抱えるガルドを見る。

「四つあります」

エドガーの声は抑えられていたが、いつもより長く息を継いだ。

「根の奥の脈動は、私たち四人の鼓動と同じ間隔です。順に照合しました。偶然とするには一致しすぎています」

百年前に死んだと記されている四人。

名も、世の常識も残っているのに、ここへ来る前の顔だけが記憶から抜け落ちている四人。

ミアは黒根を見た。自分たちの胸の奥まで、この城の仕組みと繋がっているような言い方だった。聞きたくない。だが、聞かなかったことにもできない。

リゼットは剣の柄を強く握った。それ以上は何も言わない。彼女が恐れを飲み込むとき、背筋はいっそう真っ直ぐになる。

石がまた鳴った。

今度は、水面に銀色の灰が浮いた。黒い水の上を漂っていた細かな光が、風もないのにひとつの方向へ流れ始める。

エドガーが顔を上げた。

「リゼットさん、剣を抜かずに水面へ近づけてください。ミアさんは浮いた灰を受けてください。ガルドさんは足場を見てください。私は動いた順序を記録します」

リゼットは水槽の縁へ進んだ。ミアは薬草袋から葉を一枚抜き、両手で受け皿のように広げる。ガルドは支柱を押さえたまま、足場の亀裂から目を離さない。

長剣の鞘先が水面へ近づく。

銀灰が、吸い寄せられた。

黒い水の上の光が、細い群れになって剣へ集まる。剣先は誰の手にも引かれず、ゆっくりと城のさらに深い方角を向いた。

ミアの葉へ落ちた灰は、いつもの灰より重い。濡れているのに散らず、鈍い銀を保っている。

水槽の壁、その指す先に近い場所で、石の下から紋章が現れた。泥と根に半ば埋もれた古い道標だ。王家の紋章。ミアにも見覚えのある形だった。エドガーが身を乗り出して文字を追う。

「灰冠王の霊廟を示しています」

彼は帳面を閉じずに言った。

「石棺と、この剣を合わせれば、私たちと封印の関係を確かめられる可能性があります。推測ですが、ここで得た一致を照合するには、ほかにない場所です」

霊廟。

剣。

石棺。

手掛かりは、逃がせば二度と揃わない気がした。

そのとき、四つの脈動が重なった。

水槽全体が、大きく傾いた。

足場が片側へ滑る。黒根が板の間から噴き出し、古い木材を引き裂いた。水面が持ち上がり、逆流する黒水が支柱へ叩きつけられる。

ガルドの背後で、霊廟へ続く細い通路が見えた。同時に、その手前の支柱が折れかけている。

支柱を落とせば、彼らは安全な側へ退けるだろう。だが水槽の一部は沈み、今、剣と道標が示したものの大半は濁流に呑まれる。

支え続ければ、通路は渡れる。銀灰の行く先も、四つの鼓動という記録も残せる。

ただし、支柱のそばにいるガルドだけは、崩れる石と水圧をまともに受ける。ミアには、その重みが見えた。

黒根が足場を裂く音の中で、ガルドは支柱の前へ身体を入れた。

丸盾を木材に押し当て、肩を低くする。水槽が傾くたび、濁った水が彼の鎖帷子を打った。彼は後ろを見なかった。

「俺が支柱を支える」

短い声が、水音を切った。

「リゼット、ミア、エドガーは霊廟へ渡れ。振り返るな。足場が持つうちに行くぞ」

通路は細い。先へ渡る者が急げば、残る者は一人になる。その決め方が、ミアには嫌だった。

「ガルド、無茶はさせない」

リゼットは剣を抜かずに言った。彼女は通路を見てから、支柱を見た。

「先に渡る。でも、合図したらすぐ退いて。霊廟で待つ」

「ガルドさん」

エドガーは帳面を胸に抱え、言葉を選ぶ暇もないまま続けた。

「記録を失うより、あなたを失う方が重いです。無理なら合図を待たず、すぐ退いてください」

ミアは支柱に食い込むガルドの靴を見た。足元の板は、彼の体重と水圧に耐えて、すでに裂けている。

「ガルド、支柱を支えて」

自分でも矛盾していると分かった。支えてほしい。けれど置いていくつもりはない。

「霊廟で待つのはしない。渡ったらすぐ戻る」

ガルドの肩が一度だけ揺れた。笑ったのか、息を吐いたのか、ミアには見えなかった。

「先に渡れ。ミア、戻るな。全員が通路に入ったら合図しろ。俺もすぐ退く」

彼はさらに踏み込んだ。

身体の芯から力を絞るように、支柱を押し返す。腕の筋が鎖帷子の下で張り、丸盾の縁が軋んだ。支柱はわずかに戻り、通路へ続く足場が持ち上がる。

「行こう」

リゼットが先頭に立った。

彼女は剣を鞘ごと抱えるようにして、崩れた板の上を渡る。一歩ごとに足場を試し、ミアが続ける場所を作る。ミアは濡れた木材の継ぎ目を踏まないよう、根の張った箇所だけを選んだ。後ろからエドガーが来る。彼は帳面を守る片腕を離さず、それでも目の前の足場をきちんと見ていた。

ガルドの方で、水が爆ぜた。

黒い逆流が支柱を越え、彼の脇腹へ叩きつけられる。続いて石片が落ち、鎖帷子の肩を打った。彼の姿勢が沈む。

ミアは振り返りかけた。だが、ガルドの声が先に飛んだ。

「動くな。渡れ」

その命令に従うことは、見捨てることとは違う。そう言い聞かせても、足を前へ出すたびに腹の底が縮んだ。

リゼットが通路の向こうへ渡り切る。次にミアが跳ぶ。石の縁へ靴がかかり、彼女は両手をついて身を引き上げた。エドガーも続き、帳面を濡らさずにこちら側へ来た。

「全員、通路に入った」

ミアは振り返って叫んだ。

支柱を押さえていたガルドが、ようやく力を抜いた。

その瞬間、支柱の根元が砕けた。彼は倒れかけた木材から身を外し、濁流を肩で受けながら通路へ飛び込む。リゼットが腕を伸ばし、ミアも反対側から彼の手首を掴んだ。エドガーは足元へ滑ってきた石を避けながら、彼が通路の壁にもたれられる場所を空けた。

背後で足場が崩れ、水槽の闇へ落ちていく。

ガルドは壁に背を預け、しばらく息を整えた。肩と脇腹に打たれた跡が残り、鎖帷子の隙間から水が滴っている。それでも彼は、まず通路の入口を見た。

「問題ない」

いつもの短い言葉だった。

だが立ち直るとき、彼はミアたちの支えを振り払わなかった。

水槽の向こうでは、銀灰が指した方角がまだ残っている。四つの脈動を記した帳面も、霊廟を示した紋章の形も失っていない。その代わりに、ガルドの傷と、仲間の手にかかる重みが残った。ミアはその腕を離さず、崩れる水槽に背を向けた。

水槽の奥で開いた石の通路は、湿った地下水の匂いを運んでこなかった。

代わりに、乾いた灰の匂いがした。

ミアはそれを吸い込み、足を止めた。灰は古い。けれど死んだ匂いではない。水槽の下から城の上へ巡らされているものと、どこかで繋がっている。

通路の先には重い扉があった。石に刻まれた王家の紋章は、水槽の壁で見つけた道標と同じ形をしている。灰冠王の霊廟。その名が、冷たい石の向こうで待っている。

リゼットの銀灰の長剣が小さく震えた。彼女は剣の柄へ手を添え、扉から目を逸らさない。

エドガーは濡れた眼鏡を拭い、帳面を胸元へ戻した。ガルドはまだ傷むはずの身体で壁を離れ、通路の暗がりを確かめる。誰も、水槽に残してきた崩落の音を口にしなかった。

ミアはガルドへ手を差し出した。

「ガルド、手を出して。渡ったらすぐ支える」

彼女は、手掛かりだけを先へ行かせるつもりはなかった。