第9話 王を刺した手
灰冠王の霊廟は、水槽の轟音から切り離されたように静かだった。
部屋の中央に王家の石棺がある。蓋には灰冠を戴くアステル王と、その足元に並ぶ四つの小さな人影が彫られていた。誰を表したものか、リゼットにはまだ言えない。ただ、石棺の縁に薄くこびりつく銀灰を見たとき、鞘の中の長剣が細かく震えた。
抜け、と言われているようだった。
彼女は剣の柄に手を置いた。冷えた革の感触が、掌に残る。
水槽からここへ来るまで、灰の流れを追った。法廷で聞かされた罪状も、地下水路で打っていた石のような脈動も、まだ答えになってはいない。それでも、剣だけがこの棺を前から知っているように震えている。
怖くないわけではなかった。記憶のない自分が、かつて誰かを刺したのかもしれない。その相手がこの石棺に眠る王なら、剣を抜く指も、棺へ近づく足も止まりそうになる。
けれど、止まれば何も確かめられない。
「エドガー、灰の比較を頼む。私が剣を棺へ近づける。変化があれば、すぐ止めてね」
エドガーは眼鏡の位置を直し、厚手の上着の内側から記録帳を出した。指先のインク染みが、暗がりでも黒く見える。彼は返事の代わりに、石棺の縁から灰を紙片へ静かに取った。リゼットが持つ碑文の写しにも、墓標から移った同じ色の粉が残っている。エドガーはそれらを並べ、携帯灯の光へかざして粒を確かめていく。
ガルドは、石棺の周りを一度だけ大きく回った。鎖帷子がかすかに鳴る。水圧と崩落で負った傷が残っているはずなのに、彼はそれを気にした様子も見せず、床の亀裂と出口までの距離を目で拾った。
「分かった。俺は足場と退路を見る。何か動いたら、すぐ下がれ」
ミアは言葉を挟まなかった。彼女は石棺から少し離れ、膝を折って灰の積もり方を見ていた。小柄な背中が、壁際の闇に溶け込みそうになる。床に落ちた灰が、誰かの足で乱された跡なのか、霊廟の空気だけで流れたものなのか。彼女は指を近づけ、触れる寸前で止めた。
リゼットは息を整え、長剣を抜いた。
銀灰の刃は灯りを鈍く返した。剣の根元にも、拭っても落ちなかった灰がわずかに残っている。その色は、棺の縁のものと似ていた。似ている、というだけでは足りない。エドガーが紙片の上で灰を寄せ、粒の形を見比べていくあいだ、彼女は剣先をほんの少しずつ近づけた。
何も起こらなければいい、と心のどこかで思った。
何か起きなければ困る、と同じ場所で思った。
剣先が石棺の縁すれすれで止まる。銀灰がひと粒、刃へ吸い寄せられるように転がった。
エドガーが記録帳へ目を落としたまま、低く息を吸う。
棺の灰。墓標の写しに付いた灰。長剣に残る灰。
色だけではない。粉の細かな形も、光を吸う鈍さも同じだった。どれも、何かを閉じ込めるために使われた封印材だった。
さらに石棺の蓋を見れば、刃を置くための飾りだと思えた細い刻み目が、剣の長さに沿って続いていた。だが剣を傾けると、線は鞘へ納めるための位置とは合わない。石に刻まれているのは、もっと低く、もっと深く届く角度だった。
王の胸へ、刃を通す角度。
リゼットの喉が乾く。
剣は王を刺した場面と、ただの伝承や偶然ではなく、石そのものを通じて結びついていた。
彼女は剣を引かなかった。柄を握る手だけが、少し強くなった。
エドガーが石棺の刻み目を見つめ、記録帳の余白に短い線を書き込んだ。
「リゼットさん、剣先を刻み目へ当ててください。何が見えるか、私は順序立てて記録します」
彼は事実を並べるように言った。その声に急かす響きはない。けれど、引き返せるうちに引き返そうとも言わなかった。
リゼットは刃を石へ下ろした。
触れた瞬間、冷たさが腕を走った。
霊廟の灯りが遠のき、石の匂いも、ガルドの靴底が床を踏む音も消える。代わりに、灰が舞う広間があった。胸元まで黒く濡れた男がいる。灰冠を戴くアステル王だった。
彼女の剣は、すでに王の胸へ入っていた。
目の前の光景にいる彼女は、剣を抜かなかった。抜けなかったのかもしれない。王は刃から身をそらさない。苦しそうに息を詰まらせながら、剣を持つ手へ自分の手を重ねた。
温度があった。
記憶の中の指は、彼女の手を押しのけるためではなく、留めるために握った。
王の唇が動く。聞こえた言葉は、ひどく短かった。
『次の王を作るな』
助けを求める声ではなかった。
誰かに王の役目を継がせるな。次を立てることで、この終わりを繰り返すな。痛みの中にあった言葉は、そういう命令として彼女の胸へ沈んだ。
リゼットは息をのんで、現実へ戻った。
剣先はまだ刻み目に触れている。手首のあたりに薬草の匂いがした。ミアがいつの間にか近くへ来て、彼女の現在をつなぎとめるように、薬草袋をそっと寄せていた。
リゼットは手を震わせたまま、剣を石から離す。
「……王は、逃げなかった」
声が低くなった。続きを言うには、胸の奥が重すぎた。
「私の手を握って、言った。次の王を作るな、って」
エドガーの筆が止まらない。彼は彼女の言葉を急いで書きつけながらも、聞き返して曖昧にしなかった。王の言葉を助命の願いにすり替えず、命令として残すために。
ガルドは棺の前へ出た。彼は一度、出口を振り返る。何か動いたときに退けるよう、身体の向きを決めてから石棺の蓋へ手をかけた。
「俺が蓋をずらす。エドガー、記録しろ。何か動いたら下がれ」
大柄な肩が沈み、石が鈍い音を立てて動いた。
蓋の下に遺骸はなかった。
乾いた石棺の底には、四人分に分かれた銀灰の痕だけが残されている。人ひとりの形には足りない、けれど四つの場所に確かに分かれた痕だった。リゼットは蓋に彫られた四人の小さな人影を思い出す。あれとこの灰を、今すぐ同じものだと決めつけることはできない。ただ、石棺が空であることは、王がここに遺骸として眠っていないことを示していた。
ミアが棺の底近くへ目を寄せた。灰の匂いに混じる、紙の乾いた匂いを追うように、彼女の指が底板の端を示す。
ガルドが慎重に板を持ち上げた。
裏に、一通の封書が封じられていた。
宛名を見たエドガーの顔から血の気が引く。そこには、現在ここにいる彼の名が書かれていた。
エドガー・レイン。
彼が封を確かめると、紙面の文字もまた、彼自身の記録帳の筆跡と一致した。細く、整い、急ぐときだけ文字間が詰まる、あの書き方だった。
未来のエドガーが書いたものだと、誰もがすぐには口にしなかった。だが、彼の手が封書の上で止まるのを、リゼットは見た。
次の瞬間、石棺の下で何かが裂けた。
黒い根が、割れ目から噴き出した。
根は湿っていない。乾いたまま蠢き、灰を巻き上げながら床を這う。出口へ向けて伸びたそれが、石扉の前を塞ぎ始める。太い根の節からこぼれた灰は、床へ落ちる前に熱を持ったように赤く光った。
封書を守れば、根を退ける手が足りない。
根を断って出口を開けば、全員で退けるかもしれない。だが石棺の割れ目は封書のすぐそばにあり、紙を落とせば、未来のエドガーが残した文字の一部を失う。
リゼットは、さっき見た王の手を思い出した。
命令の意味は、まだ最後まで分からない。
それでも、ここで失ってよい記録ではないことだけは、はっきりしていた。
黒い根は床を叩き、灰を散らした。出口は半ば塞がれ、向こう側の通路が細く見えるだけになった。
ミアは根の節と、熱を帯びた灰の落ちる場所を見た。薬草袋へ一度手を添え、それからエドガーを見た。
「封書を失えば、黒雨を止める手掛かりも欠ける。エドガー、持って。ガルド、根を押さえられるか」
短い声だった。迷いを隠しているのではなく、迷う時間を根に渡さない声に聞こえた。
エドガーは封書と記録帳を抱き寄せる。紙を濡らすものはない。それでも灰に焼かれ、裂かれ、割れ目へ落ちれば終わる。彼は厚手の上着の内側で二つを重ね、腕で押さえた。
「一つ目は封書を守ります。ガルドさん、根を押さえてください。私が記録帳と封書を抱え、リゼットさんに道を開けてもらいましょう」
「ミア、エドガーを守って。私が根を押し返す。灰の守りで道を開く」
リゼットは言い切ってから剣を構えた。自分が行く、と決めるのは早かった。だが足元で跳ねる灰を見て、ミアまで近づけることに一瞬ためらう。
王の言葉が胸に残る。誰かを王にしないための命令。その命令を残す記録を守るために、仲間へ傷を負わせるかもしれない。
それでも封書を置いてはいけない。
「エドガー、封書を胸に固定して。私が道を開く」
ガルドは丸盾を前へ出し、根の押し寄せる位置へ身体を入れた。傷の残る動きでも、彼は退路から目を離さない。
「エドガー、落とすな。根は俺が止める。リゼット、行け」
根が盾へぶつかり、鈍い音を立てた。ガルドの靴が石床を削る。彼が押し返した根の隙間に、リゼットは踏み込む。
長剣の銀灰が、刃の周りで淡く散った。
崩れかけた石と、根が巻き上げる熱い灰から、彼女は仲間の前に薄い壁を作るように刃を振るった。完全に根を断つための一撃ではない。封書を抱えるエドガーが通れるだけの道を、ほんの少し開けるための力だった。
「今だ。エドガー、行こう」
エドガーが走る。腕の中の封書をかばい、記録帳を落とさないよう身を縮めて、狭い隙間を抜ける。
ミアは彼の足元を見ていた。根の影がどこへ伸びるか、灰がどこに溜まるかを追い、エドガーが引っかからない場所を選ぶ。
だが、灰は根の外側にも飛んだ。
熱を持った粉がミアの脚と腕へ降りかかる。彼女は顔をしかめ、息を詰めた。それでも足を止めず、エドガーの背を押して出口へ向ける。
「足元。右」
それだけ言った直後、力が抜けた。
リゼットが振り返ったとき、ミアの膝が石床へ落ちかけていた。彼女は剣を差し込んで根を押し返し、空いた手でミアの肩を支える。ガルドも盾を保ったまま身を寄せ、彼女が倒れ込まないよう受け止めた。
封書はエドガーの胸元に残った。紙の端は欠けず、未来の彼自身の筆跡も失われていない。
代わりに、ミアが灰に焼かれた。
彼女は仲間の支えを借りて立った。いつものように地面を見ようとしたが、視線がうまく定まらないらしい。リゼットの腕へかかる重みが、小柄な身体の無理をはっきり伝えてくる。
リゼットは謝る言葉を飲み込んだ。今さら謝っても、灰は消えない。
「ミア、もう一人で歩かないで。私たちの間にいて」
剣の柄を握り直す。根はまだ背後で動いている。
「行こう」
霊廟を離れ、根の届かない通路まで出たところで、リゼットはようやく足を止めた。
背後では石の擦れる音が遠くなっていく。王の石棺も、空だった棺の底も、黒い根も、いまは通路の闇の向こうにある。けれど、さっき触れた石の冷たさと、王が握った手の温度だけは、彼女の掌から消えなかった。
エドガーは封書を両手で持ったまま、破れも濡れもない紙面を確かめていた。宛名には彼の名がある。自分の筆跡で書かれた封書を、彼は記録帳へしまわず、胸の前に置いたままだった。
その宛名の下に、かすれた文字が一行だけ残っている。
雨封じの記録庫へ戻れ。
リゼットはその文字を見た。次に行く場所が示されたからといって、王の言葉の答えが出たわけではない。なぜ彼女が刃を握っていたのか。四人分の灰は何を封じたのか。エドガーはいつ、この手紙を書いたのか。
分からないことは、まだ多い。
だが、剣が知っていたものを、今度は彼女自身の目で見た。王を刺したのは確かに自分だった。少なくとも、あの記憶の中では。
その事実を抱えたまま進むしかない。
ミアの呼吸が浅い。ガルドは彼女のそばに立ち、出口側と後ろを交互に見ている。傷を負った彼自身も、黙っている。エドガーは封書から顔を上げず、けれど歩ける位置へ移った。
リゼットは一人ずつ見た。
「エドガー、封書を抱えて進んで」
彼女はミアへ目を向ける。
「ミア、ガルドの近くを歩いて」
それから剣を抜き直し、四人の最後尾へ回った。短い黒髪の首筋に、霊廟の冷気が残る。前を歩く仲間の間隔を確かめ、闇の奥を見据える。
「私が最後尾を守る。行こう」
四人は、雨封じの記録庫へ続く道へ進んだ。