第25話 失われた名
ガルドの丸盾を中心の要へ打ち込んだ尖塔で、黒い雨は四筋に裂けていた。
裂け目の向こう、鈍い光が四つ、脈を打つように浮かんでいる。床を這う灰は波になり、石へ刻まれた四人の名を、爪で削るような音とともに舐めていった。核の表面にある文字は、もっと簡単だった。
――王を弑した者。
リゼットは歯を食いしばった。短い黒髪の先から落ちる水滴が、革鎧の肩を濡らす。名前まで奪われれば、今ここに立つ自分たちは、あの文字の言うとおり、何かを命じられるまま繰り返すだけのものになる。
少し前まで、彼女は百年前のことを知らなかった。自分の顔にも、仲間の顔にも、初めから見覚えがあったわけではない。けれど、名を呼び合い、同じ道を歩き、危ない場所では誰かが前へ出て、誰かが記した。その積み重ねまで、黒雨は消そうとしている。
丸盾の脇で、ガルドが片膝をついていた。傷を受けた側をかばっている。彼は立ち上がろうとして、うまく足へ力を入れられずにいた。
リゼットは携帯灯を掲げた。風のない尖塔で、灯りだけが細く揺れる。もう片方の手には、濡れないよう胸元にしまっていた碑文の写しがある。
「エドガー、これを使って。ミア、流れを見せて。ガルドは私たちが支える」
彼女は言ってから、ガルドへ向いた。
「ガルド、無理に立たないで。盾はそのまま。私たちが支えるよ。核への道が見えたら、すぐ動こう」
ガルドは返事の代わりに、盾を押さえる腕へ力を入れた。大柄な身体がわずかに沈む。傷は問題ないと言い捨てる男が、今は反論しなかった。その沈黙だけで、リゼットには十分だった。
エドガーは灯りと写しを受け取らず、リゼットが差し出した位置のまま覗き込んだ。厚手の上着の内側から記録帳を出し、眼鏡の奥で核と写しの文字を何度も往復する。インクの染みた指先が震えているのに、頁を押さえる力はゆるまない。
ミアは薬草袋を開いた。粉をつまみ、黒雨の流れへ散らす。粉は落ちず、灰の波へ吸い込まれていく。見えなかった流れが、淡い筋になって床を走った。彼女はその筋を追い、口を閉ざしたまま、次々に核の下へ視線を移す。
リゼットも黙った。急がなければならない。だが、急ぐあまり見間違えれば、彼ら自身が失われる。
四つの核から延びる筋は、ただ四人の身体を探しているのではなかった。鈍い光は、石から削った名の欠片を集め、互いを呼んだ記憶を薄くし、歩いてきた道で何を選んだかまで均していく。その先に残るのは、王を殺したという役目だけだった。
従順で、替えがきいて、過去を問わない役目。
リゼットの背筋を冷たいものが走った。彼女が王へ剣を向けたことがあるのなら、その一撃には理由があったはずだ。恐怖も迷いもあったはずだ。それらを消して、罪の形だけを残す。核はそうして四人の銀灰の欠片を、封印を動かす部品へ戻そうとしている。
「……違う」
小さく漏れた声は、黒雨の音に消えた。
リゼットは携帯灯を核へ向け直した。あの鈍い光に、決めさせるわけにはいかない。ガルドをこれ以上ひとりで受けさせるわけにもいかなかった。
名を取り戻す道を掴む。そのために今は、見えるものを確かめる。彼女は灯りを下げず、エドガーとミアの手元を照らし続けた。
エドガーが記録帳から顔を上げたとき、灰の波は石の文字を半ばまで削っていた。
「一つ目は名前です」
彼は濡れた眼鏡を袖で拭う暇もなく、けれど言葉の順序だけは崩さずに続けた。
「リゼットさん、ガルドさん、ミアさん。私たちは、誰かに与えられた役目でここにいるのではありません。自分で選んだ行動によって、ここまで来ました。順に、互いの名と見届けた意志を返しましょう」
リゼットは核を見た。文字はまだ、王を弑した者、としか言わない。あの四文字に、自分たちのすべてを押し込められるのは耐えがたかった。
彼女は一度、剣の柄を握り込んだ。それから顔を上げる。
「エドガー」
名を呼ぶと、核の光がかすかに揺れた。
リゼットは、自分が見届けたことを口にした。彼は未来へ記録を渡そうとした。過去を閉じて終わらせず、まだ知らない誰かへ残すために。細い指で帳面を守り続けたことも、力仕事を他人に託して、できることを手放さなかったことも、彼女は忘れていない。
エドガーは息を呑み、すぐに別の核へ目を向けた。
「ガルドさんは、王を押さえました。あの場で、ほかの者へ決断を押しつけるためではなく、必要なことを四人で引き受けるために」
次に、ミアの名が呼ばれた。彼女が灰を鎮めようとしたこと。危険な流れのそばで、見落とされる小さな変化を追い続けたこと。
そして、リゼットの名へ言葉が戻ってきた。彼女がアステル王へ剣を向けたこと。ひとりの手が引いた剣ではあっても、ひとりだけの罪へ作り替えてよい出来事ではないこと。
名がひとつ呼ばれるたび、リゼットの胸の奥で、形にならない痛みがほどけた。百年前に何を恐れ、何を選んだのか。そのすべてを取り戻せたわけではない。それでも、核が削ろうとした場所に、誰かの声が戻ってくる。
リゼットはリゼットだ。エドガーはエドガーで、ガルドはガルド、ミアはミアだった。
四人は、同じ罪を背負わされた四つの器ではない。王を刺したこと、押さえたこと、灰を鎮めようとしたこと、記録を未来へ渡したこと。そのどれもが、ひとりに押しつけられなかった選択だった。
核の表面で、王を弑した者という文字がひび割れた。灰の輪が乱れ、四つの銀灰の欠片がそれぞれの核へ近づく。
「今だ」
ガルドが低く言った。
彼は麻縄を取り出し、盾の縁と床の残った石組みに巻きつける。傷のある身体を、また前へ差し出すつもりなのだとリゼットには分かった。
「三人とも、俺と盾を支えろ。核への道を開く」
「分かった」
リゼットは答え、銀灰の長剣を床の溝へ深く差し込んだ。剣を通して、乱れた灰の輪を押しとどめる。ガルドの盾が流れを受け、麻縄がきしみ、黒雨は四人を飲み込もうとして形を変えた。
彼女は剣の柄を両手で握り、踏ん張った。ガルドの背が、すぐ前にある。エドガーの帳面が濡れないよう身体の内側へ抱え込まれているのが見えた。ミアは床すれすれに視線を落とし、流れの薄い場所を見逃さない。
灰の輪は止まった。
その瞬間、核の奥に沈んでいたものが見えた。墓標から名が削られていた理由だった。
百年前の四人は、名を奪われたのではない。再び形を与えられた自分たちが、灰冠に名を握られ、次の器へされることを恐れていた。だから自らの名を、墓標からも城の記録からも消したのだ。罰のためではない。未来の自分たちに残した、ぎりぎりの防壁だった。
リゼットは、その選択の重さに息を止めた。忘れられることを選ぶしかなかった者たちがいた。そして自分たちは、その防壁の内側から、もう一度名を拾い上げた。
四つの欠片が核を押し返した。
尖塔のどこかで、鐘が鳴った。
音は一度だけだったが、耳ではなく骨に響いた。黒雨が跳ね上がり、冠のような闇が尖塔の上方に組み上がる。鐘守が、この場所に残していた権限を動かしたのだと、リゼットは理解した。
四つの核のうち、彼女に繋がる光だけが強く引かれた。胸の奥にある銀灰の欠片まで、目に見えない糸で冠の中心へ吊り上げられるようだった。
足元が遠ざかる。
黒雨の向こうに、広い石床と、重い玉座の影が重なり始めた。百年前の王の間だった。
仲間のいる尖塔と、王の間。その二つの景色が重なった境目で、リゼットは知った。自分をすぐ引き戻せば、灰の下に現れた刻印は埋もれる。けれど刻印を確保すれば、鐘守の制御経路を断つ手掛かりが残る。その代わり、彼女はあの剣を振るった瞬間の恐怖へ、ひとりで沈むことになる。
王の間が、尖塔の床へ薄く重なっていた。
リゼットの足元には黒雨の石があるのに、視界の端には百年前の柱が立っている。冠の中心から引く力は、身体ではなく、胸の奥をつかんで離さなかった。剣を向けた記憶はまだ形を結ばない。ただ、次の瞬間に何かを失うと知っているときの冷たさだけが、先に戻ってきた。
灰の底には刻印が浮かんでいた。細く複雑な線が、鐘守の力の通り道を示している。あれを失えば、次に抗うための道まで失う。
けれど、待つ時間が長くなるほど、王の間は濃くなる。
ミアが床へ手をかざした。彼女の声は短く、けれど迷っていなかった。
「刻印を写す。リゼットを一人にしない。エドガー、書いて。私は流れと刻印を見る」
「リゼットさんを一人にする時間は作れません」
エドガーはすぐに帳面を開いた。声がいつもより速く、丁寧だった。
「刻印は私が見た順に書き留めます。ミアさん、形と流れを指示してください」
ガルドは盾を流路へ向け、リゼットの方へ目をやった。
「リゼットを一人にはしない。刻印を写せ。俺は流路を押さえる」
彼が傷を抱えたまま立っているのを、リゼットは見た。誰も、彼女を見捨てて手掛かりを選ぶとは言わない。誰も、手掛かりを捨てて今だけを選ぶとも言わない。
両方を取ろうとしている。その無茶を、四人で引き受けようとしている。
リゼットは震える手で、床へ刺した長剣を握り直した。
「ガルド、盾を頼む。私もここで耐えるから、エドガーとミアは刻印を写して」
言い終えた途端、冠の中心が強く脈打った。
ガルドの盾へ黒雨が叩きつけられる。彼は押し返さず、逃がさず、流れが刻印を覆わないよう受け止めた。麻縄が軋み、床の石が低く鳴る。
「上の線から」
ミアが言った。薬草袋を握る手の甲が白くなっている。
「流れは私が見る。リゼット、耐えて。すぐ戻す」
エドガーの筆が帳面を走った。彼はミアの示す順に、一本ずつ刻印を書き取る。線の折れ、灰の流れが交わる場所、消えかける印。目で追うだけでは間に合わない速さで、黒雨が形を変えていく。
リゼットは王の間へ引かれた。
冷えが手首から肩へ上がる。革鎧の下へ、氷の細片を流し込まれたようだった。次いで、胸の奥が裂けるように痛んだ。剣の重み。誰かの気配。引き返せないと分かっていた一歩。記憶はまだ断片のままなのに、恐怖だけが正確に彼女を捕まえた。
耐える、と言ったのは自分だ。
リゼットは目を閉じなかった。見ていなければ、ここにいる仲間の姿まで遠ざかる気がした。ガルドの盾。エドガーの帳面。ミアの小さな背。
だが、冠は容赦しない。
ミアが流れを追うたび、灰は逆に彼女の側へ跳ねた。細い身体が揺れ、彼女は片手を床について踏みとどまる。刻印を読むために近づけた指先へ、黒い冷たさがまとわりついた。
エドガーが筆を止めずに、彼女の方へ身体を寄せた。ガルドも盾を保ったまま、流れがミアへ回らないよう肩の向きを変える。二人の支えがなければ、彼女はその場に立っていられなかっただろう。
刻印は残った。
鐘守の権限を破るための手掛かりは、エドガーの帳面へ写し取られた。けれど代価は小さくなかった。
リゼットは灰冠の記憶へ深く引き込まれた。冷えは骨の芯に残り、胸の痛みは息をするたびに刃のように動く。ミアもまた、灰の反撃を受け、仲間に支えられてようやく姿勢を保っていた。
それでも、誰も手を止めなかった。残したものの重さを、四人とも知っていた。
刻印を写し終えたあとも、尖塔の黒雨は静まらなかった。
むしろ、名を取り戻した四人を見定めるように、冠の中心で光が集まった。リゼットの胸の奥にある銀灰だけが、急に上へ引かれる。
息が詰まった。
床を踏んでいる感覚が薄れ、彼女の身体は冠の中心へ吸い寄せられていく。周囲にいた三人の声が届く。何を言っているか、すべてを聞き分けられる距離ではない。それでも、自分を呼ぶ声だと分かった。
リゼットは、その音を手放さなかった。
百年前の王の間が、今度ははっきりと視界へ重なる。石の柱。遠い玉座。そこにいるアステル王へ、彼女は剣を向けている。銀灰の長剣は、尖塔で握っているはずの手と同じ重さで、過去の彼女の手にもある。
怖い。
その感覚は、もう否定できなかった。王を刺した瞬間の恐怖が、形も理由も取り戻しきらないまま、彼女の喉元まで迫る。
けれど、核が望むように無名へ戻るつもりもなかった。リゼットは剣の柄を強く握った。痛みがある。冷えがある。仲間の声がある。それらは、王を弑した者という一つの言葉には入らない。
彼女は振り返ろうとした。尖塔の側にいる三人を、確かめたかった。
「ガルド、エドガー、ミア、行こう」
低くなった声でも、名は消えなかった。
「私たちの名を抱えたまま、ここを抜けるよ」
言葉のあと、冠の中心から伸びた力が、彼女の銀灰の欠片をさらに引き上げた。
三人の呼ぶ声が届く中、リゼットの視界は、アステル王へ剣を向けた百年前の王の間に重なっていった。