第24話 盾の向こう側
王城の最上部、雨の流路制御塔の床を、黒い雨が生き物のように這っていた。
壁からあふれた雨は柱を伝い、石床を覆い、塔の中央で踏ん張るガルドの丸盾へ押し寄せる。百年前から残る焼け跡が、濡れた鉄のように黒く熱を帯びていた。盾の向こうに立つ彼は、肩で息をしている。黒雨が彼を中心の流れから引き剥がそうとしているのが、ミアには見えた。
すでに王の姿を借りた影は崩れていた。けれど、あの影が再現していた百年前の細部は、斬られた灰と一緒に散ってしまった。残った手掛かりは少ない。少ないからこそ、ここで見逃すわけにはいかなかった。
ミアは膝をつき、石床に指先を置いた。冷たいはずの石は、雨の下でかすかに震えている。灰が寄る向き、雨が避ける細い筋、石と石の継ぎ目に残る古い傷。目を凝らすだけでは足りない。
「盾と床を見る。灰の寄る石目を追う。要への道があるかもしれない」
ガルドは振り返らずに答えた。
「俺の盾はまだ持つ。ミア、石目を指せ。エドガー、記録と照らせ。俺が足場を読む」
彼の短い声の下で、黒雨が盾を叩いた。衝撃が石床を走り、ミアの膝にまで届く。リゼットは剣を握ったまま、ガルドの背後へ雨が回り込まないか見張っていた。黒髪の下の横顔は硬い。彼女は何も言わなかったが、刃先をわずかに動かし、流れが跳ねるたびに足の位置を変えた。
その横で、エドガーは厚手の上着の内側から記録帳を出した。濡らさぬよう身体でかばい、眼鏡の奥で床と頁を行き来させる。インクの染みた指が、急いでいるのに乱れなく紙を押さえていた。
ミアは息を止め、灰を見るための力を目の奥へ沈めた。
黒雨の黒が、一瞬だけ薄くなった。
床の上に散らばって見えていた灰が、ただの濁流ではなくなる。灰は石の継ぎ目を選び、一本の太い筋から四本の細い筋へ分かれようとしていた。中央には、他より少し深く沈んだ円い石がある。そこへ向かう溝は、雨を閉じ込めるためのものではなかった。押し寄せるものを受け、四方へ逃がすための古い仕組みだった。
見えた途端、目の奥が重くなる。灰を追う力が、残っていた気力を削っていく。それでもミアは視線を外さなかった。
「石目。ここから四つに割れる」
彼女は指で濡れた床をなぞり、中央の円へ向けて止めた。
「ガルド、盾を床へ近づけて。私が灰の道と重なる石目を指す」
エドガーが帳面から顔を上げた。
「一致します。床の刻みと、設計記録に残された分流の形が同じです。中央へ丸盾を固定できれば、雨を止めるのではなく、四方向へ散らせるはずです」
彼の声は丁寧だったが、最後の言葉に緊張がにじんだ。記録は答えを示している。けれど答えの先まで安全だとは、どこにも書いていない。
ミアは中央の石から四方へ延びる溝を見た。盾を置ける。だが、ガルド一人の腕で押さえても、雨はすぐに彼を削るだろう。分かれた流れは別々の方向から押し返してくる。残る三人が、それぞれ力と流れを受けなければ、盾は要から外れる。
四人でしか止められない。
その事実が、黒雨より冷たく胸に落ちた。
ミアは手掛かりを失いたくなかった。散った映像の代わりに、床はまだ道を残している。けれど、道を読むだけでは誰も救えない。ガルドがここに立ったままでは、彼の身体が先に尽きるかもしれなかった。
彼女は中央の石を見据えたまま言った。
「一人では無理。三人で分ける」
黒雨は返事の代わりに、盾へ重くぶつかった。
ガルドが丸盾を中央の円へ押し込むと、石と鉄がぶつかる鈍い音が、尖塔の内壁を震わせた。
しかし盾はまだ沈み切らない。黒雨が縁からあふれ、石床の溝を逆向きに走る。分けるための道が、押し戻されようとしていた。
リゼットは迷わず前へ出た。彼女は銀灰の長剣を両手で構え、盾の脇に刃を差し入れる。剣の銀灰へ意志を込めると、刃の周りで淡い色が息をした。彼女の力が抜けていく気配は、ミアにも分かった。けれどリゼットの背筋は崩れない。
「ガルド、盾を押し込んで。私が支点を作る。四人で受けるよ」
剣が石を噛み、盾がさらに深く沈む。
ミアは腰の薬草袋から根を取り出し、盾と石のわずかな隙間へ押し込んだ。雨を止める薬草ではない。けれど根が水を含んで膨らみ、灰の滑りを鈍らせる。彼女は床に片手をつき、黒雨が次に膨らむ場所を見ながら、短く声を飛ばした。
「右。来る」
ガルドが肩を入れた。エドガーは帳面を胸に抱え、濡れない場所を探すより先に、床の線と頁の図を見比べていた。力仕事をしようとはしない。その代わり、迷いそうな方向を言葉で削っていく。
「左の溝は浅いです。そちらへ押し込まないでください。中央の石から見て、少し右です」
四人の力が噛み合った瞬間、黒雨が裂けた。
中央から噴き上がっていた黒い壁は、四つの細い流れとなって古い溝へ走る。雨はまだ暴れている。それでも、盾の前にあった暗がりが開いた。
そこに、四つの鈍い光が浮かんだ。
灰冠の内部に隠されていた核だった。ひとつひとつが、彼らの持つ銀灰の欠片に遠く応じるように、低く脈打っている。冠を完全に分けるための入口が、ようやく姿を見せたのだ。
だが光の周りには、空っぽの灰が薄く揺れていた。名を呼ばれたとき、顔を見たとき、何か大切なものを思い出しかけたときに、その輪郭だけをさらっていく灰だ。核へ手を伸ばすなら、また記憶を奪われる接点に近づくことになる。
ミアは四つの光を数えた。一つ、二つ、三つ、四つ。見失わないように目で留めようとしたが、黒雨の圧は休まなかった。
次の波が、盾へ正面からぶつかった。
ガルドの足が石を削る。盾の縁がわずかに浮いた。彼は咄嗟に押し返したが、腕に走った痛みに顔が歪んだ。肩の鎖帷子の隙間へ黒い飛沫が食い込み、布地が濡れて色を変える。
盾を抜けば、彼を流れから退かせられる。傷もこれ以上は深くならないだろう。
けれど抜いた瞬間、四つの核はまた雨の奥へ隠れる。今ここに現れている尖塔の構造も、灰の位置も、次に同じ形で残るとは限らない。
その選択を前に、ミアは自分の指が冷えているのに気づいた。手掛かりを守りたい。だが、そのためにガルドを傷つけ続けるのか。その問いは、答えを急がせるほど重かった。
エドガーがガルドへ向いた。帳面を抱いたまま、彼はいつものように順序をつけて話そうとして、最初の言葉だけを置いた。
「ガルドさん、話してください」
黒雨の音がある。それでも彼の声は聞こえた。
「百年前の責任を、今度は一人で抱えさせません。私たちは、誰かに押しつけられてここへ来たのではありません。それぞれ、自分で選んで王を止め、封印を引き受けたのです。今も同じです。共に支えると決めています」
ガルドはすぐには返さなかった。彼は盾を押さえたまま、四つに裂けた黒雨を見ていた。雨の奥の核ではなく、今、盾の脇に立つ仲間たちへ目を向ける。
百年前、仲間を守れなかったから彼らが死んだのだと、彼は抱え続けてきたのだろう。だがリゼットたちは、彼に守られるだけの者ではなかった。王を止めるために、自分の意志で残った。封印を引き受けた。失われたものを、彼一人の失敗にしてはいけない。
そのことが、彼の表情から少しずつ硬さを抜いた。
「……俺一人で守る役じゃない」
言葉は低く、雨に削られそうだった。
「支えろ。俺も、盾も」
丸盾はもうただの防壁ではなかった。四人が同時に力をかければ、核へ続く道をつなぎ留める錨になる。だが錨は、流れを受ける。黒雨はなおも盾を押し抜こうとしていた。
黒雨の一撃が、またガルドの腕を打った。
彼の身体が揺れ、肩口から黒く濡れたものが鎖帷子を伝った。ミアは薬草袋へ手を伸ばしかける。傷を見るべきだ。今すぐ流れから引き離し、手当てをするべきだという考えが、指を強く引いた。
けれど、目の前には四つの核がある。
道が閉じれば、次に開ける保証はない。石床の溝に沿って集まっていた灰も、雨に飲まれれば位置を変える。残る手掛かりまで失う。
ガルドは苦しげに息を吐き、それでも盾から手を離さなかった。自分の麻縄を取り出し、中央の要へ打ち込まれた盾と近くの石組みに回す。雨に濡れた縄は重く、彼の指の間で軋んだ。
「盾は抜くな。俺はまだ立てる。四つの核へ行く時間を作る。三人とも支えろ」
リゼットは一度、ガルドの傷へ目を落とした。彼女の剣はすでに支点を支えている。残された力も多くはないはずなのに、手は離さなかった。
「ガルド、無理はさせない。でも、核への道は今しかない」
彼女は刃の角度をわずかに変え、盾を支える位置へ体重を預けた。
「私が盾を支える。ミアは傷と流れを見て。エドガーは核への道を指して」
「承知しました」
エドガーは帳面を開く手を震わせながらも、頁を風雨からかばった。
「一つ目、盾の固定を続けます。二つ目、核への道を記録します。ガルドさん、限界だけは申告してください。これは、道を残すためにも必要です」
彼は、まだ見えている通路の角度と核の位置を目で測り、濡れないよう身体の陰で書き留め始めた。細い指は力にならない。だが彼が残す線は、進む者を迷わせない。
ミアは言葉を返さなかった。いま手を離せば、分流の癖を見失う。けれど、ガルドの傷も見失いたくなかった。彼女は床を這う灰と彼の肩を交互に見た。黒雨が最も強く押す瞬間、盾がどちらへずれるか、傷がどれほど深く濡れているか。その両方を目に刻む。
「左から押す。次で強い」
短く告げると、三人が備えた。
波が来た。
黒雨は裂けた四本の流れを一つに戻そうとし、盾へまともに体当たりした。石床が鳴る。縄が張り詰める。ガルドの腕が弾かれ、彼は歯を食いしばって盾へ身体ごと押し返した。
リゼットの長剣が石を削りながら支点を保つ。ミアは床へ手をつき、雨が溝からあふれようとする箇所を見つけるたび、根を詰めた隙間へ押し戻す。エドガーは逃げずに帳面を抱え、核へ続く細い通路を示した。
「中央から二歩、右へ。そこだけ石が沈んでいません。進むなら、そこを使えます」
盾は抜かれなかった。
黒雨は四つの溝に押し込められたまま、荒くうねっている。核への通路は、狭く、黒い水煙の向こうに残った。近づくための時間も残った。
代わりに、ガルドの傷は深くなった。腕と肩に受けた流れは、彼の身体から確かに力を奪っている。けれど彼は倒れなかった。一人で持ちこたえたのではない。縄が盾をつなぎ、リゼットが支点を守り、ミアが流れを読み、エドガーが道を示した。その全てが、彼の背を支えていた。
ガルドは荒い息の合間に、ほんの少しだけ体重を仲間の側へ預けた。
それを見たミアの胸から、張りつめていたものが少し抜けた。傷は後ではない。けれど、今はまだ道がある。彼を置いて進むためではなく、彼と一緒に進むために残した道だ。
黒雨の奥に、四つの核の鈍い光が残っていた。
光は近いようで遠い。分けられた流れの間には、濡れた石の細道が伸びている。足を置ける場所は限られ、黒雨が少しでも勢いを取り戻せば消えるだろう。
ガルドは盾の前に一人で立とうとしなかった。彼は縄と盾の張りを確かめ、傷ついた腕を無理に隠さず、身体の重みを三人の側へ預けた。リゼットは剣を抜かずに支点を保ち、振り返って後ろの雨を見た。エドガーは核までの線を帳面に留めたまま、石の沈み具合を確かめている。
ミアは先頭の足場へ視線を落とした。黒雨が通った跡だけは滑る。灰が薄く積もった石の縁なら、まだ踏める。
尖塔を満たす灰は静かだった。静かすぎた。
次の波は、さっきまでのように盾を砕こうとするだけではないのかもしれない。四人の名を曖昧にし、互いの顔から意味を剥がし、ここへ来た理由まで持ち去るために寄せている。核の周りで揺れる虚ろの灰が、その予感を裏づけていた。
ミアは自分の名を胸の内で確かめた。ミア・エルデ。薬草袋の重み。石の冷たさ。目の前の四つの光。まだ失っていないものを、数えるように触れた。
道が消える前に進まなければならない。
「ガルド、盾を支えたまま進める」
彼女は最初の石を指した。
「エドガーは道を指して。リゼットは後ろを見て。私が次の足場を示す」
四人の名を奪うため、尖塔の灰は次の波を静かに寄せ始めた。