第26話 最後の近衛

尖塔の中心で、リゼットの身体は黒雨に足を取られ、灰冠の核へ半ば沈んでいた。

雨と呼ぶには粘りすぎた黒いものが、床から逆巻いて彼女の革鎧へまとわりつく。銀灰の長剣を握る手は白く、刃先だけが、核の内側で明滅する鈍い光を受けていた。

その前に、剣を胸へ受けた王が立っている。

百年前に滅びたはずのアステル王。その顔は傷と灰に半ば隠れていたが、声だけは妙に穏やかだった。

――今度こそ冠をかぶれば、誰も失わない。

エドガーは喉の奥が冷えるのを感じた。記憶に引かれた彼女の横顔は、こちらを見ていない。王の姿も、あの囁きも、彼女にだけ届くものだった。

けれど、剣を握り直した指の動きは三人にも見えている。あと少しで、彼女がその言葉に従うかもしれない。

「一つ目は、リゼットさんを呼び戻す手掛かりです」

エドガーは厚手の上着の内側から記録帳を取り出した。黒雨が一滴でも落ちれば紙は駄目になる。彼は帳面を胸元へ寄せ、震えた指で頁を押さえる。

「私が記憶と記録を照合します。ガルドさん、ミアさんは、リゼットさんへ声を届けてください」

「刻印を見落とすな」

ミアは床に散った灰と核の縁を見たまま言った。短い髪ではなく、後ろで束ねた栗色の髪の先にまで黒い湿り気が迫っている。

「リゼットには、私が声を届ける」

ガルドは答えなかった。彼は傷だらけの丸盾を黒雨の流れへ向け、四人の足元から崩れそうな石床と、戻るための細い足場を見ていた。言葉より先に、次の波がどこから来るかを測っているのだとエドガーには分かった。

核のそばでリゼットの唇が動いた。王へ向けたものか、こちらへ向けたものか、最初は聞き取れない。

やがて彼女は、切れそうな息で言った。

「エドガー、アステル王の言葉を確かめて。私が聞き違えないよう、名前を呼び続けて」

「承知しました。リゼットさん」

エドガーは眼鏡の奥で頁を追った。墨の線、書き写した碑文、共有された断片の中に残る王の口の形。黒雨が見せる王は、冠を勧めている。だが記録の王は違った。

彼は目を閉じ、記憶の奥に沈んだ像へ意識を差し込んだ。

冷たい灯が、瞼の裏にともる。

王の間が見えた。剣を胸に受けたアステル王の周りで、石壁が焼け、灰が降っている。王は苦しみの中で冠を求めてはいなかった。むしろ、冠を見て怯えていた。自分が止まれば次が生まれる。その仕組みそのものを恐れていた。

四人の影へ向けた最後の願いが、紙の文字とぴたりと重なった。

――次の王を作るな。

守れ、ではない。自分を救え、でもない。王を止める判断を、残った者たちへ渡した言葉だった。

エドガーは息を吸った。記録者として、曖昧なものを都合よく書き換えることだけはできない。けれど今、確かめた言葉を彼女へ返さなければ、紙に残す意味もなかった。

「リゼットさん。確認できました」

王の影が、核の上で微笑んだように見える。黒雨が強く鳴った。

「アステル王は、あなたに自分を守れとは命じていません。『次の王を作るな』と願い、自分を止める判断を、私たち四人へ託しています」

彼は彼女の名を呼び直した。

「いま冠を勧めている声は、王が死の間際に抱いた恐怖を、虚ろの灰がなぞったものです。王の遺言ではありません」

リゼットの剣先が、ほんのわずかに下がった。王の姿は消えなかった。ただ、黒雨に映った輪郭が揺らいだ。

エドガーは帳面を閉じなかった。次に失われるものが何であれ、確かめた事実だけは彼女のそばに置くつもりだった。

「リゼット、聞け」

ガルドの声が尖塔を打った。

「王を止めたのは、俺たち自身の選択だ。次の王になるな。剣を選べ。生きて帰るぞ」

その言葉はまっすぐだった。だが黒雨は、まっすぐな声ほど飲み込むように膨らんだ。核の周囲で渦を巻いていた灰がリゼットの耳元へまとわりつき、彼女の目からこちらの姿を拭っていく。

彼女の視線が、ガルドを通り過ぎた。

名を呼んだはずなのに、彼女はすぐ答えない。エドガーの胸の内側で、先ほど得た手掛かりが急に遠くなる。言葉だけでは足りない。届かなければ、リゼットは彼らの名を思い出せなくなる。

黒雨の内側へ入って止めるなら、彼女に直接触れねばならない。だが踏み込んだ者の記憶も、あの灰は削っていく。誰かの手を取るために、その誰かの名を失う。そんなやり方を繰り返す余裕はなかった。

エドガーは記録帳を抱いたまま、黒雨の厚みを見た。腕力で分け入る役ではない。自分の手では、届かない。

その時、ミアが胸元から白い布を出した。

濡れた尖塔の中で、布だけがひどく目立った。そこに残されたものは、先の自分たちが迷わないための約束だった。彼女は布の端を確かめるように指でつまみ、リゼットへ向ける。

「白布。未来への約束」

ミアの声は高くない。それでも、今度は黒雨に消えなかった。

「リゼット。私たちは生きて帰る。王を作らせない」

ガルドが丸盾を構えたまま、一歩だけ前へ出る。黒い流れが盾の縁を叩き、昔の焼け跡を鈍く光らせた。

「リゼット。白布の約束を聞け」

彼は空いた手を伸ばした。

「俺たちは王の部品じゃない。俺の手を見ろ。名前を呼べ」

エドガーも、確かめた事実を重ねた。

「リゼットさん。王の言葉は一つです。『次の王を作るな』。あなたが選ぶのは王冠ではなく、私たちと帰る道です」

黒雨の中で、リゼットの瞳が揺れた。

彼女は王の命令に従うためだけの近衛ではなかった。王を救えないと知ったうえで、それでも仲間と共に王の役目を終わらせることを選んだ。その選択が、白布の約束と、差し出されたガルドの手と、エドガーの読み上げた遺言に引かれて、彼女の中へ戻ってくる。

「……ガルド」

低い声だった。

「ミア。エドガー」

呼ばれた三つの名が、黒雨の上に残った。

リゼットは核へ沈みかけた足を引き抜こうとした。黒い灰が絡みつく。彼女は顔をしかめたが、長剣を手放さない。

「エドガー、ガルド、ミア。私の名を呼んでいて」

その声には、迷いを押し込める硬さがあった。

「王の役目はここで終わらせる――行こう」

彼女が刃を横へ払うと、銀灰の光が黒雨の表面を裂いた。灰の中で彼女の意志が広がり、押し寄せる流れを一瞬だけ遠ざける。冷えと痛みが彼女の身体を走ったことは、その肩がわずかに震えたので分かった。それでも、彼女は核の前に立つ場所を作り出した。

そこでエドガーは、ようやく核の形を見た。

冠そのものが敵なのではない。四人を次の封印の器に組み替えるための、結び目だった。核を断てば、鐘守が続けてきた継承の仕組みは壊れる。リゼットを「次の王」に留める道も断てる。

同時に、尖塔を満たす黒い圧が壁の外へ逃げようと膨らんだ。

石壁のどこかから、鐘のようでいて鐘ではない声が響く。

核を破れば、虚ろの灰は王城へ噴き出す。

外縁の石が、音を立てて剥がれた。崩れた隙間の向こうに、王城の暗い屋根と落下していく黒雨が見える。

核を斬れば、リゼットは冠の支配から逃れられる。だが全員が灰の噴出に巻き込まれ、地下で新たな流れを作らなければならない。

斬らずに力を弱めるなら、噴出はいくらか抑えられる。けれど彼女の身体には灰冠とのつながりが残り、次の器として何度でも引かれ続ける。

二つの道を前にして、エドガーは帳面の角を強く握った。記録を残すことと、目の前の人を残すことが、いつも同じ答えになるわけではない。

だが、リゼットの剣はもう核へ向いている。彼女は王冠を選ばないと、剣で示していた。

尖塔の外縁から、また石が落ちた。

黒雨は壁の裂け目へ押し寄せ、王城の下へ垂れ始めている。核の前に立つリゼットの外套が揺れ、その背中は小さく見えた。けれど、彼女は振り返らなかった。

エドガーは一度、息を整えた。危険は明らかだった。灰が噴き出せば、塔は持たない。自分たちは地下へ追われる。記録帳を抱えて走るだけでも難しいだろう。

それでも、彼女をここへつなぎ直す選択だけはできなかった。

「リゼットさん、斬ってください」

自分の声が思いのほか震えずに出たことへ、エドガーは驚いた。

「ガルドさんが流路を作れるよう、私は灰の動きと足場を記録します。ミアさんも、帰路を見失わないよう支えてください」

ガルドはすぐに核と崩れた外縁を見比べた。

「リゼット、斬れ。灰が噴き出すなら、俺が退路を作る。誰も器に残さない」

リゼットは剣をわずかに引いた。

「ガルド、退路だけでなく地下の流路も頼む」

彼女は短く言い、核から目を逸らさない。

「私は記録を残し、灰を止める道を失わせない」

ミアは口を開かず、白布を黒雨から守るように押さえた。彼女の目は灰の流れと、崩れた石の間にあるわずかな道を追っている。

四人の間に、これ以上の相談はなかった。

リゼットが踏み込んだ。

銀灰の長剣が核を断った。

耳を裂くような音はしなかった。ただ、塔の中に張り詰めていた圧が消え、次の瞬間には黒い灰が息を吐くように四方へ噴き出した。冠の内側で組み上げられていた継承の道筋が崩れ、鐘守の仕組みは断ち切られる。

核から離れたリゼットの身体が、ぐらりと揺れた。黒雨が引きずり込もうとしていた力は消え、彼女は灰冠から解放された。

だが代わりに、虚ろの灰は尖塔の裂け目から王城全域へあふれ出す。

天井近くの石が落ちた。エドガーは帳面を抱え込んで身を伏せたが、衝撃と灰の波に足をさらわれた。肩から背へ鈍い痛みが走り、息が詰まる。立とうとしても、膝が石床をうまく捉えない。

「エドガー」

ガルドの声とともに、彼の身体を支える力が来た。反対側にはミアの小さな手があり、引きずり込まれそうだった彼を灰の流れから戻してくれる。誰がどこを支えたのかまで記す余裕はなかった。ただ一人では立てなかった彼が、仲間の力で立ち上がれた。

帳面はまだ腕の中にある。頁は汚れたが、失われてはいない。

エドガーは痛みに顔をしかめながら、リゼットを見た。彼女は長剣を握ったまま、噴き出す灰の向こうに立っていた。王の影はもういない。

残ったのは、崩れる塔と、ここから逃げるために進まなければならない暗い道だけだった。

黒雨と虚ろの灰は、尖塔の中を満たしながら王城の下方へ落ちていった。

リゼットは刃を下ろした。王のために剣を振るう近衛としてではない。王の役目を終わらせる者として、自分で選んだ一撃の後に立っている。

ガルドは崩れた石の間へ先に進み、麻縄を取り出した。太い指で端を確かめ、まだ残っている柱の根元へ回す。

「縄を張る」

彼は振り返らずに言った。

「俺について来い。全員揃って地下へ行くぞ」

エドガーは、彼に支えられた身体をどうにか動かした。痛みは残っている。それでも、帳面を胸に抱く腕には力が入った。さっきまで紙に残すだけだった記録は、今は彼らが進む理由の一つになっている。

ミアは白布をしまい、灰が落ちる先を見た。彼女の視線に従えば、崩れた尖塔の下には、灰が集まっていく場所がある。

四人は離れなかった。

ガルドの張った縄を頼りに、落下する灰と崩れかけた石を越える。リゼットは銀灰の長剣を手放さず、エドガーは記録帳を守り、ミアは足元の流れを見失わない。誰かが先へ行きすぎれば、縄が引かれて知らせる。

尖塔の上では、王を作るための仕組みが壊れた。

けれど灰は消えず、黒雨と混ざり合って王城の深い場所へ向かっている。その行き着く先は、王根の貯水槽だった。

エドガーは暗い下り道の向こうを見た。恐怖は消えていない。だが、リゼットが名前を忘れず、自分の剣を選んだという事実が、胸の内に小さく残っていた。

四人は、灰の行き着く先である王根の貯水槽へ向かった。