第2話 逆さ雨の中庭

大広間から逃れ出た四人の前で、黒い雨が地面から空へ昇っていた。

落ちたはずの雫が石畳を打ち、次の瞬間には糸のようにほどけて、夜の底へではなく雲のない空へ吸い上げられていく。靴を置くたび、水が足首にまとわりつき、引き戻そうとする。中庭の枯れ木だけが、その根元にわずかな乾いた土を残していた。

城の奥へ続く回廊は、逆巻く雨の幕の向こうにあった。

エドガーは濡れた袖で記録帳を抱え込み、紙の端を確かめた。先ほどの崩落から守り抜いた帳面は無事だったが、持っているだけで道ができるわけではない。リゼットが守った碑文の写しも、彼女の腕の痛みと引き換えに残った。ここでまた曖昧なものへ踏み込めば、残った記録まで失いかねない。

「一つ目は、雨の流れと、乾いた根元の範囲を見ましょう」

エドガーは、石と雨を見比べながら言った。

「推測ですが、根元が次の足場になるかもしれません。私が順に記します」

「まず俺が近くまで行く」

ガルドは短く答え、傷だらけの丸盾を腕に収めた。

「足場と退路を見る。危なければ止める」

リゼットは何も言わなかった。写しを濡らさぬよう胸元へ押さえ、痛む腕をかばうように立っている。彼女の横で、ミアも視線を地面へ落としていた。二人とも、言葉を足して観察を散らすより、今ある変化を拾う方を選んだらしい。

ガルドが一歩進む。

その靴底の脇で、黒い雨が急に渦を巻いた。

石畳の継ぎ目に溜まっていた水が、上へ吸われる流れに引かれ、輪の形で回り出す。さっき見えた露出石が、次の瞬間には黒い水の下へ沈んだ。エドガーは帳面に線を引き、石の位置を記そうとした。しかし雨の渦は線より早く変わり、同じ場所を示す印が役に立たなくなる。

一つ、二つ、と数えた石は、もうどこにあったのか確かめられない。

「……だめです」

声が自分でも思ったより硬かった。

「石が、見えなくなりました。同じ順で確かめても、次には変わっています」

帳面へ落ちそうになった雨を手で払い、エドガーは書きかけの頁を閉じた。記録は残せる。けれど、記録した通りに道が残るとは限らない。その違いが、今は怖かった。

ガルドは引き返さず、渦の外側へ足を置いたまま中庭を見た。目を上げた先には、欠けた月があった。雲もないのに、黒い雨だけがそちらへ流れている。

「見るだけじゃ足場が消える」

ガルドは麻縄を取り出した。

「俺が縄を伸ばす。ミア、根元の乾き方を見ろ」

「根元」

ミアは乾いた土へ視線を据えた。

「雨の渦に、どう続くか見る。縄は張ったままにして」

ガルドはうなずき、麻縄をほどいた。片手で盾を構え、もう片方で縄を繰り出す。濡れた石へ体重を預ける前に、靴底で確かめる。その足取りには急ぎがあるのに、踏む場所だけは乱れなかった。

エドガーは黙って帳面を抱えた。先ほど自分が試したのは、変わるものを紙の上で固定しようとするやり方だった。ガルドは縄で、変わる場所そのものに道を作ろうとしている。方法を変えなければならないという事実を、目の前の背中が示していた。

ミアが低く言う。

「月。欠けた方へ流れてる」

エドガーも顔を上げた。黒雨はただ空へ昇っているのではない。枯れ木の周りで渦を作りながら、月の欠けた側へ斜めに引かれていた。

ガルドの伸ばした縄の先で、露出した石が細く連なっている。その線は、枯れ木の乾いた根元まで届いていた。渦の内側は踏めない。だが、石の背だけを選べば渡れる。

「記録します」

エドガーは改めて帳面を開いた。今度は石を一つずつ書き留めようとしなかった。月の方角、枯れ木、縄、露出した石の並びだけを急いで残す。

「雨は月の欠けた方へ流れています。根元までは、出ている石を伝えば渡れます」

自分の声が少し落ち着いたのを、彼は聞いた。確かなことは多くない。それでも、今は進めるだけの事実がある。

張られた麻縄を頼りに、四人は枯れ木の根元へ寄った。

乾いた土は、黒雨に囲まれているのが不自然なほど、靴裏にさらりとついた。ミアはしゃがみ込み、指先で土の表面をそっとなぞった。何かを掘り返すような乱暴さはない。ただ、残された形を壊さぬよう、目と手で確かめていく。

「足跡」

ミアが言った。

「小さい」

エドガーもその脇へ身を屈めた。乾いた土には、細い靴底の跡が続いている。大人のものではない。けれど雨に洗われた中庭で、この根元だけが跡を留めていた。足跡は回廊の方へ向かい、露出石の上で途切れている。

その先の石には、白い布が結ばれていた。

黒い水を逆に昇る雨の中で、布だけが濡れた色を失わず、弱く揺れている。結び目は回廊へ向いていた。誰かが通ったのか、誰かが通る者へ残したのか。エドガーは決めつけず、帳面に足跡の大きさと、布の位置を書いた。

姿はない。

それでも、ここには自分たちより先に進んだ者の痕があった。

リゼットが回廊の暗がりを見た。彼女の顔色は、雨に濡れた石よりも白く見えたが、写しを持つ手は離さない。

「ガルド、縄を張ったまま頼む」

低い声だった。

「白い布の先を確かめて、雨の理由に近づこう」

ガルドは縄を握り直した。答えは短かった。

「行くなら俺が先だ」

リゼットは携帯灯に火を入れた。小さな灯りは風のない雨の中で震え、回廊の入口を照らす。壁には古い刻印があり、昇る雨の影がそこを何度も横切った。

エドガーは灯りに浮いた文字の端を追った。水路を示す線。閉じた門を思わせる形。碑文の写しを抱えたリゼットも、灯りを少し持ち上げる。

そのとき、回廊の奥で鈍い震えが走った。

低い唸りが石壁の内側から伝わり、水門が揺れた。次いで、黒い水が裂け目から噴き上がる。雨は柱のように逆立ち、携帯灯の光を呑み込んだ。

「下がってください!」

エドガーが叫ぶより早く、噴き上がった水が足元を打った。

リゼットは身体をひねり、写しをかばった。しかし足場が揺らぎ、痛めていた腕に無理がかかる。彼女の息が短く詰まり、灯りが大きく傾いた。ガルドが縄を引いて彼女を戻すが、腕の痛みは隠しようもなく残った。

刻印は水の膜の向こうへ消えた。

見えた文字を追っていれば、また同じ噴き上がりに足を取られる。エドガーはそう悟り、濡れた帳面を胸に抱いた。紙を守ることはできても、紙に写す対象が消えてしまえば、記録にはならない。

「リゼットさん、腕は大丈夫ですか」

彼は言いながらも、問いが遅いと感じた。

「刻印が見えない今は、一つ、布の結び方と足跡を先に記録します。二つ、回廊の入口を確かめましょう」

リゼットは痛む腕を身体の横へ下ろした。剣の柄を握る指がきつくなる。だが、こちらを見て答えた。

「エドガー、腕は動く。刻印を追うのは止めよう」

彼女は白布の方へ顎を向けた。

「布と足跡がどこで途切れるか、入口から見えるところだけ確かめる」

エドガーはうなずいた。ガルドは雨の噴き上がる場所を見張り、ミアはリゼットのすぐ後ろに立った。誰も余計な言葉は言わなかった。水の勢いが増すたび、皆の足の置き場だけが少しずつ狭くなっていく。

エドガーは入口から目を凝らし、足跡と白布を帳面に移した。結び目の向き、低い石道の幅、縁に刻まれた線。思った通りには見えない。雨の幕が視界を断ち、足場は黒く濡れて輪郭を失う。

それでも、噴き上がった水が一部の石を洗い、崩れかけた壁の内側を露わにした。

そこに、刻印の続きが見えた。

回廊の文様は、逆さ雨を止めるための水門へ繋がっている。門を開けば雨の流れは落ち、回廊へ渡る道は作れる。

だが、水門の下には、足跡と白い布のある低い道がある。

門を開けば、その道は水に沈む。

反対に、狭い縁を渡れば、足跡も布も残せる。ただし、雨の力をまともに受ける。リゼットの腕はすでに傷んでいる。雨が噴き上がる中で、全員が細い縁を渡り切れるとは言えなかった。

黒雨はさらに回廊を覆い始めた。白布の端が見えたり、消えたりする。

エドガーは帳面の頁を押さえた。残したい痕跡がある。先を歩いた小さな靴の主へ繋がる、ほとんど唯一の証拠だ。しかし、記録を残すために仲間を危険へ置くことは、記録者として正しいのか。

彼は答えを自分だけで決めず、皆へ向けて言った。

「リゼットさん、刻印は追いません。私は布の結び方と、足跡が途切れる場所を記します」

言葉を急ぐほど、丁寧になる。

「ガルドさん、縄は張ったまま支えてください。ミアさんは、入口の外側に変化があれば教えてください」

書き留めた事実は、選ぶべき答えを示してはくれない。水門を開いて道を作るか。証拠を残すため、狭い縁を渡るか。

雨の幕は、待ってくれなかった。

水門の前で、ガルドは麻縄を握ったまま、低い道を見た。

白い布は黒雨の中でかろうじて揺れ、小さな靴跡はその下に消えかけている。あれを失えば、先に進んだ誰かを追う手がかりは消える。エドガーには、その重さがよく分かった。帳面の中に残る説明だけでは、足跡の主の行き先までは埋められない。

だが、回廊の縁は人ひとりが横歩きで渡るのがやっとだった。水門から吹き上がる雨は、すでに石の端を洗っている。

ガルドが言った。

「水門を開く。痕跡より退路だ」

彼は振り返り、順に仲間を見た。

「リゼットは俺の後ろ。ミアとエドガーは下がれ」

「足跡」

ミアの声が落ちた。彼女は地面を見たまま、しばらく動かなかった。

「残したい。でも今は、人を失いたくない。水門を開こう」

リゼットは剣を握り、回廊の奥ではなく背後の雨へ目を向けた。言葉はない。ただ、痛む腕をかばいながらも、いつでも背後へ向けるように身を置いた。

エドガーも反対しなかった。

記録を守りたい。その思いは消えていない。けれど、リゼットの腕の傷と、黒雨に細っていく退路を見たあとでは、紙の上の証拠を優先しろとは言えなかった。失ったことを書き残す者が必要なら、それは自分でいい。誰かが失われるよりは。

ガルドは麻縄を石の突起へ回し、身体を水門へ預けた。丸盾を前に出し、流れ込む水を受けながら、重い仕掛けへ手をかける。

石が軋んだ。

一度では動かない。ガルドは足を踏ん張り、縄を引いた。水門の震えが腕から肩へ伝わり、黒い水が跳ねる。彼の肩が大きく揺れたが、手は離れなかった。

次の瞬間、門の奥で何かが外れた。

逆巻いていた雨の幕が、音を立てて落ちた。

空へ昇っていた黒い水は勢いを失い、回廊の床へ流れ落ちる。目の前には濡れた石の道が現れ、ようやく四人が進める幅になった。

だが同時に、水門の下の低い道へ水が押し寄せた。

小さな足跡は、一つずつ黒い水に塗り潰されていく。白布は石からほどけることもなく、結ばれたまま沈んだ。最後に見えた白が水の底へ消えるまで、エドガーは目を離せなかった。

先を歩いた誰かを追うための証拠は、失われた。

帳面に残せるのは、足跡が小さかったこと、白い布が回廊を指していたこと、そして水門を開いたために二つとも水に呑まれたことだけだ。

ガルドは水門から手を離した途端、わずかによろめいた。

「ガルドさん」

エドガーが呼ぶと、ガルドはすぐに首を振った。

「問題ない」

短い言葉だったが、踏み出した足が石を探すように止まった。ミアがすぐそばへ寄り、エドガーも反対側から腕を支えた。ガルドは嫌がるでもなく、ただ前を見たまま、仲間の支えへ体重を少し預けた。

安全な道はできた。

けれど、その道の脇には、失ったものを覆う黒い水が静かに流れていた。

雨の幕が落ちた回廊を、四人は揃って進んだ。

先頭へ戻ろうとするガルドの歩みは、いつもよりわずかに重い。エドガーはその横顔を見たが、無理に尋ねなかった。「問題ない」と言った者へ、同じ問いを重ねても答えは変わらないだろう。ただ、離れすぎない位置を保った。

ミアが前方を見て、短く告げた。

「ガルド。無理をするな。四人で進もう」

ガルドは返事の代わりに、麻縄を握る手を上げた。進むという合図だった。

回廊は、城の奥へ下るのではなかった。湿った石壁に沿って緩く上がり、やがて大広間の上段へ出た。さっき逃げてきた広間を、今度は高い場所から見下ろすことになる。

崩れた梁。黒雨に濡れた床。戻る道を塞いだ瓦礫。

入口からは見えなかった奥壁に、石扉があった。

扉には銀の紋章が刻まれている。火の気のない広間でも、その紋章だけが鈍く光を返していた。エドガーは記録帳を開きかけ、それから一度、仲間の姿を確かめた。リゼットは碑文の写しを守っている。ミアは扉と床の間を見ている。ガルドはまだ立っていた。

そのとき、扉の向こうから鐘が鳴った。

一度だけだった。

乾いた音が大広間の高い天井へ上がり、消えた。