第1話 名もなき墓標
黒い雨が頬を打ち、リゼットは崩れた王城の大広間で目を覚ました。
冷たい雫が睫毛に溜まり、瞬きをするたび視界を黒く横切った。石床は雨水と細かな灰でぬめり、鼻の奥には濡れた石と古い埃の匂いが残っている。握った長剣の刃には、雨の中でも鈍く光る銀色の灰が貼りついていた。
少し離れて、三人が身を起こしていた。目覚めた直後に名乗り合ったので、リゼットは彼らを知っている。エドガー・レイン。ガルド・ベイル。ミア・エルデ。けれど、その顔も声も、名前を聞くまでまるで知らない人間だった。
自分の名は言える。グライゼン王国が百年前に滅びたことも知っている。
なのに、なぜ王城の廃墟にいるのか。自分がどんな人生を歩いたのか。その肝心なところだけ、濡れた紙から文字を拭い取ったように抜け落ちていた。
天井から小石がひとつ落ち、目の前の墓標を叩いた。
四基。どれも新しい。苔に覆われた床や崩れた壁に比べて、墓標だけが不自然に白かった。大広間の出口は瓦礫に潰され、中庭へ通じる戸も閉じたままだ。雨音の向こうで、梁がゆっくり軋んでいる。
ここに長居はできない。だが、見なかったことにもできなかった。
リゼットは腰の携帯灯に火を入れた。小さな灯りが雨の幕を押し返し、墓標の表面に淡い円を作る。
「エドガー、碑文を読んで記録して。私たちは四基を順に見る。崩れそうなら、ガルド、支えてくれ」
エドガーは濡れないよう胸元から記録帳をかばい、うなずいた。
「承知しました。私は一基ずつ読みます。文字の形と、欠けた箇所も記します」
ガルドは返事の代わりに、墓標と天井の間を見上げた。落ちそうな石、沈みかけた床、背後の瓦礫へと目を走らせる。その姿勢だけで、彼が周囲を引き受けたのが分かった。
ミアは剣先にこびりつく銀灰ではなく、足元を見ていた。地面の灰が雨水に引かれてどこへ流れているのか、黙って目で追っている。
リゼットは一基目の墓標の前に膝をついた。触れるほど近づかず、灯りをかざす。名があったはずの部分は、刃物か硬い石で削られていた。深く、執拗に。誰のものだったかを残さないための傷に見えた。
その下だけは、消されずに残っている。
――王を弑した者、ここに眠る。
息が止まりかけた。
エドガーの筆先が紙を擦る音だけが、近くで細く続いた。二基目にも、三基目にも、四基目にも、同じ文があった。削られた名。残された罪。そして、命日の欄に並ぶ同じ日付。
昨日。
リゼットは四つ目の石を見つめたまま、唇を結んだ。
墓標は四基。ここにいるのも四人。
けれど、石に名はない。自分たちが埋められた者だと断じるには、何ひとつ足りなかった。頭の奥で、その可能性だけが冷たい針のように刺さる。
怖いからといって、答えを急いで決めてはいけない。分からないものは、確かめるまで分からないままだ。
リゼットは携帯灯を持ち直した。
「エドガー、読めるところから頼む。私は墓標を順に確かめるよ」
言葉にしてから、すでにそうしていることに気づく。それでも口に出したのは、自分の手を止めないためだった。四つの墓標は、黒い雨の中で黙って並んでいた。
碑文を写し終えたエドガーが、記録帳を胸に抱えたままリゼットへ向いた。
「リゼットさん。剣を少しお借りして、付着した灰と墓標の表面を順に比べます。事実から整理しましょう」
彼の言葉は丁寧だったが、紙を押さえる指が白い。リゼットはうなずき、長剣を鞘から抜いて差し出した。
「エドガー、無理はしないでね」
エドガーは剣の灰と墓標の刻み目を、灯りの届く範囲で見比べ始めた。帳面にはすでに濡れた跡が広がっている。雨は横から吹き込み、文字も灰の輪郭も容赦なく曇らせた。
彼は目を細め、墓標の近くへ身を寄せる。次の瞬間、濡れた石床で足を取られた。体勢を立て直そうとした肩へ、上から落ちた小石がぶつかる。
エドガーが短く息を呑んだ。
「大丈夫か」
ガルドがすぐ横へ踏み出す。エドガーは痛む箇所を押さえながらも、先に記録帳を雨から遠ざけた。
「……傷は問題ありません。ですが、観察については失敗です。雨で銀の線を見失いました。同じ比べ方を続けても、確かなことは増えないでしょう」
声こそ整っていたが、濡れた頬の色は悪い。リゼットは剣を受け取り、鞘へ戻した。灰を知りたい。碑文との関係も、ここへ来た理由も知りたい。だが、答えのために仲間を削るつもりはなかった。
ガルドがエドガーと墓標の間に身体を入れた。
「エドガー、下がれ。雨で無理だ。リゼット、剣は戻せ。俺が周りと足場を見る。別の手掛かりを探すぞ」
ミアは地面の灰から視線を上げずに言った。
「ガルド。足場を見るなら、墓標を倒さないで。灰の流れは私が追う。雨に消される前に」
リゼットも頷いた。
「ガルド、灰を追うなら墓標は動かさないで。今は見えるものだけを見よう」
エドガーは記録帳を抱き直し、傷めた腕をかばった。
「一つだけ確認します。灰の流れを追っている間、私は帳面を雨から守り、見えた位置だけを書きます」
「頼む」
ガルドは短く返し、崩れかけた石の縁へ近づいた。丸盾を腕に固定し、足裏で床を確かめる。彼が一歩踏むたび、石の下で水が鳴った。
リゼットは灯りを低くして、ミアの示す先を照らした。
「灰。溝の中」
ミアの指先が、墓標の文字を彫った細い溝を追う。
銀灰は雨に流されていなかった。剣に付いたものも、碑文の溝に残るものも、同じ鈍い色で水を弾いている。偶然似ている、と言うには似すぎていた。だが、その理由までは分からない。
「下端まで続いてる」
ミアが言う。
墓標の溝を満たした灰は、台座の縁を回り、床に近いところへ細く伸びていた。リゼットが灯りを動かすと、その線は中庭側の戸へ向かっている。
ガルドが足場を確かめようと身を屈めたとき、沈んでいた石が鈍い音を立てて崩れた。
「動くな」
彼の声が飛ぶ。
リゼットは反射的に足を止めた。ガルドの靴元から小石が転がり、墓標の脇の欠けた石材が剥がれ落ちる。危ない崩れ方だった。しかし、剥がれた石の下から、これまで隠れていた灰の筋が現れた。
それはただの線ではない。
曲線と角が組み合わさり、中庭の戸板に刻まれた紋章と同じ形を作っていた。
リゼットは戸へ目をやった。閉じたままの板戸にも、確かに同じ紋がある。
「戸の紋章につながってる」
ミアの声は低い。発見を喜ぶより、消える前に掴みたいという切迫が強かった。
戸の仕組みを調べるには、台座を動かすしかないように見えた。だが、あの足場だ。エドガーは傷を負い、梁はさっきよりも頻繁に鳴っている。
リゼットが決めるより先に、ミアは台座の根元を見た。
「エドガーの手当ても必要。でも、線が消える。今、動かす」
彼女はガルドへ顔を向けた。
「ガルド。揺れたら支えて」
ガルドは反対しなかった。ただ盾を構え、台座が倒れたとき受ける位置へ立った。リゼットは携帯灯を掲げ、ミアの手元と床の亀裂を照らす。
ミアが灰の続く台座に手をかけ、力を込めた。
石が、わずかにずれた。
重いものが地下で擦れ合う音がした。台座の下から鎖が引かれ、その緊張がほどける。直後、中庭側の戸が内側へ開いた。
冷たい雨風が吹き抜ける。
同時に、台座に支えられていたらしい梁が大きく傾いた。
ぎし、と長い悲鳴のような音が大広間に走る。
落ちた石が、エドガーの写した紙の近くへ叩きつけられた。紙は風に煽られて床を滑り、崩れた石の向こうへ取り残される。
開いた戸は出口になった。
けれど、崩れ始めた梁は、その出口を今にも押し潰そうとしている。戸を支えて全員を外へ出すか。危険を冒して、石の向こうの碑文の写しを取るか。
二つを同時に安全に選べる時間は、もうなかった。
梁がもう一度鳴った。粉塵が黒い雨に混じり、灯りの輪を白く曇らせる。
リゼットは石の向こうに落ちた紙を見た。エドガーが濡れながらも、欠けた文字まで拾って書いたものだ。四基の墓標、削られた名、昨日の命日、王を弑した者という文。その紙を失えば、いま見た事実はまた曖昧な記憶に戻るかもしれない。
けれど、戸を支えなければ皆が潰れる。
ガルドが戸の脇へ駆け、肩と丸盾を石枠に押し当てた。
「リゼット、戻れ。紙一枚より全員の退路が先だ。俺が戸を支える。今すぐ出ろ」
その言葉は正しかった。エドガーも、記録帳を濡らさぬよう抱えながら首を振る。
「リゼットさん、紙より退路です。私の記録帳も守れません。ガルドさんを手伝って、出ましょう」
ミアは戸と紙の間を一度だけ見比べた。
「ガルド。戸を頼む。私も行く。紙を拾えたらすぐ戻る。無理なら捨てて、退路を守って」
リゼットは皆の声を聞いた。聞き終えても、石の向こうの紙から目を離せない。
自分たちが誰なのかは分からない。墓標の罪が自分たちのものかも、まだ分からない。
それでも、そこに書かれた文字だけは、今の自分たちを過去へつなぐ細い糸だった。捨てたくない。危険は自分が引き受ける。
リゼットは剣の柄を握り込んだ。迷いを喉の奥へ押し込める。
「ガルド、戸を支えて。ミア、エドガーを連れて先に出て。私が紙を拾ってすぐ戻る」
「リゼット――」
ガルドの声を背に、彼女は崩れた石の方へ走った。
剣に付いていた銀灰へ意識を集める。刃の周りに淡い銀の気配が滲み、落ちてくる小石の軌道をわずかに逸らした。全てを止められるほどの力ではない。けれど、踏み込む一瞬の隙間は作れる。
床に伏せた紙へ手を伸ばす。
指が端を掴んだとき、頭上で石が割れた。
避けきれなかった岩片が腕を打つ。鈍い衝撃が骨まで響き、手から紙が滑りそうになる。リゼットは歯を食いしばり、痛む腕を胸に引き寄せた。紙だけは離さない。
「……取った」
短く言って、振り返る。
戸の向こうにミアがいる。エドガーは雨の中で記録帳を抱え、片手をこちらへ伸ばしていた。ガルドは戸を支えたまま、肩から背中まで力を張りつめている。
梁が落ちる。
リゼットは駆けた。次の石が背後へ落ち、砕けた破片が足元を打つ。開いた戸まであと数歩というところで腕の痛みが走り、身体が傾いた。
伸ばされた手が彼女を掴んだ。
誰の手がどこを支えたのか、雨と粉塵の中でははっきり見えない。ただ、引かれる力に身を預けて、リゼットは戸の向こうへ転がり出た。
胸元には、濡れて皺になった碑文の写しがある。
腕は熱を持ち、力を使い切った身体は重い。それでも紙は残った。リゼットはそれを離さず握り、仲間の支えを借りて立ち上がった。
最後に戸を抜けた者の背後で、梁が落ちた。
轟音が中庭まで追ってくる。石の破片と黒い雨が跳ね、開いていた戸の向こうを土埃が埋めた。崩れた大広間へ戻る道は、完全に塞がれていた。
リゼットは息を整えながら、胸に抱いた碑文の写しを確かめた。文字は濡れて滲んでいるが、まだ読める。腕の痛みは消えない。けれど、今は立っていられる。
四人が揃っていることを、エドガーが一人ずつ見て確かめる。傷めた腕でなお記録帳を抱え、彼は中庭の暗がりへ目を向けた。
「リゼットさん、ガルドさん、ミアさん。皆で進みましょう。まず、この広間を抜けます」
リゼットは頷いた。
「行こう」
中庭の空は、壊れた屋根よりもなお暗かった。
そして黒い雨は、地上へ落ちてはいなかった。濡れた石畳から空へ向かい、無数の雫が逆さに昇っている。
リゼットはその異様な雨を見上げ、碑文の写しを握り直した。