第2話 杉影の宿
人と妖が同じ囲炉裏を囲む古宿には、湿りを含んだ杉の匂いと、消えかけた薪の香が満ちていた。秋の夜気は障子の隙間から細く入り、火のそばにいる者の膝だけをぬるく撫でていく。
朱音は囲炉裏から少し離れた板間で足を止めた。火を囲む座には人の旅人も、山から下りたらしい妖もいたはずだ。いまは誰もが息を潜め、灰に残るものを見守っている。狐火街道で道順が夜ごと変わり、川へ向かう道ばかりが照らされていたこと。辻に残った新しい草履の主が、争った様子もなくこの宿を去ったこと。道標の裏に刻まれていた「杉影の宿で待つ」の文字。そのどれもが、ここでひとつに結ばれるのを待っているようだった。
「まず宿の中を順に確かめましょう。囲炉裏の周りから、妖気や争いの跡がないか見ていきたいのです」
声を荒らげずに言ってから、朱音は清十郎を見た。
「清十郎さん、退路の確認をお願いします。わたしは囲炉裏の周りから、順番に確かめますね」
「朱音が囲炉裏を見る間、俺は出入口と退路を見る。草履の主が戻るなら、逃げ場を塞ぐな」
短く答えた清十郎は、打刀のある腰を囲炉裏へ向けぬよう半身になった。戸口、裏の廊下、土間へ通じる影。その順に目を走らせる。誰かを疑って剣呑になるためではない。何かが起きたとき、ここにいる者たちをどちらへ逃がせるか、先に決めるための目つきだった。
時雨は言葉を挟まず、袖口をそっと握っていた。傷薬のある包みが手近にあることを確かめ、それから囲炉裏の周りへ視線を落とす。静かな姿勢だったが、草木を見分けるときのように、空気のわずかな違いまで逃すまいとしているのが朱音には分かった。
朱音は神楽の舞で身につけた足運びで、床板を軋ませないよう囲炉裏の縁を回った。座布団のずれ、火箸の向き、湯呑の置かれた場所。人の手が動かしたものと、慌てて乱れたものとを、ひとつずつ分けるように見ていく。肌には、妖の敵意を告げる粟立ちは来なかった。少なくとも、この火のそばで刃を向け合う気配はない。
宿帳は、囲炉裏の脇の低い机にあった。朱音が紙面を追うと、消えた旅人たちの名が並んでいた。その名の一つ一つの脇に、同じ行き先が添えられている。
――境川の社。
朱音は息を細く吐いた。消えた者たちは、ばらばらに迷い込んだのではない。皆、同じ場所へ向かっている。
清十郎が戸口から戻り、宿帳に目を落とした。朱音が指先で行き先を示すと、彼はすぐに紙から目を離し、囲炉裏の向こうにいた時雨のところへ歩いた。
「時雨。宿帳の名は境川の社へ向かっている。朱音の調べも踏まえ、次に何を確かめるか決めるぞ。俺は護衛を最後まで果たす」
時雨はその言葉を受け、わずかに表情を和らげた。返事を急がず、宿帳の字と囲炉裏の灰を見比べる。朱音は、その間に一歩下がった。手がかりを見つけたからといって、すぐに妖異の正体へ結びつけてはならない。人と妖の争いを止めるには、順番を違えないことが肝心だった。
やがて時雨が、匂い袋を取り出した。
「宿帳の行き先だけでは、妖異が誰かまでは分かりません。私が薬草と異変の匂いを追いますので、お二人は周囲を警戒してください」
その声は静かだったが、袖口を握る指には少し力が入った。時雨は袋の口をわずかに開き、含まれた薬気を深く吸う。薬草の香を鼻の奥に通した途端、彼女のまなざしが囲炉裏の灰、座席の縁、宿帳の置かれていた机の脚へと移った。
朱音は時雨の背後を守る位置に立った。清十郎は出入口へ目を配ったまま、近づきすぎない距離を保つ。三人の間にあるのは、言葉にしなくても続いてきた旅の手順だった。
時雨は灰の縁へ膝を折る。顔を近づけすぎず、香りの濃淡だけを追っていく。灰の表面には、乾いた匂いの下に、獣の毛と夜露を思わせるかすかな筋があった。彼女は息を整え、さらに視線を細めた。
「ここです」
時雨の指は灰そのものに触れず、すぐ上を示した。
朱音が覗き込む。火の熱で白く乾いた灰に、人の足跡が残っていた。その隣には、小さな獣の足跡がある。片方が追いすがったのでも、逃げ回ったのでもない。二つは並び、同じ方向へ延びていた。
胸の奥で、期待が小さく灯る。人と妖が一緒に歩いた跡なのかもしれない。けれど、そう願った途端に決めつけることこそ危うい。朱音はその願いを飲み込んだ。
清十郎のそばへ寄り、灰を示す。
「清十郎さん、灰の足跡は人のものと小さな獣のものが並んでいます。時雨さんの匂いの手がかりも合わせて、次に確かめる場所を決めましょう」
言いながら、朱音は足跡の向き、灰の乱れ、宿帳の行き先を一度に並べようとした。争いを止めたいからこそ、皆で同じ手順を踏みたかった。しかし言葉が重なりすぎたのだろう。清十郎は灰から目を離さず、眉をひそめた。
すぐに賛意は返らなかった。
その沈黙が、朱音の胸に冷たく落ちた。自分だけが先を急ぎ、見えるものに意味を与えようとしていたのかもしれない。怒鳴られたわけではない。それでも、言葉で橋を架けようとして届かなかったことが、夜気よりも肌を冷やした。
囲炉裏の灰は、誰も触れぬまま淡い火明かりを返していた。
朱音が言葉を失っている間に、清十郎は足跡の前へ進んだ。彼の視線は灰だけに留まらず、戸口から土間、そこから社のある方角へ続く道筋までを、ひとつながりの間合いとして量っている。
「灰の足跡は気になる。だが、触るな。俺が先に出入口と社へ向かう道を見る」
時雨が、すぐに制した。
「待ってください。護衛を離れるのはまだ早いです。朱音さん、灰を触らず、足跡の向きだけ見られますか」
朱音は顔を上げた。さっきの言葉が届かなかったことばかり考えていた自分に、時雨の静かな問いが戻る場所を作ってくれた。
「ええ、向きだけなら見られます。わたしは出入口を警戒します」
清十郎は頷くと、提灯を取り出して火を入れた。和紙越しの灯りが土間の暗がりを押しのけ、履き慣らされた板と、外へ続く湿った地面を浮かび上がらせる。彼は灰の縁に寄り、足跡の先がどこで薄れ、床のどこへ続くのかを確かめた。朱音は示された通り灰を乱さず、跡の向きだけを目で追う。人の歩幅の横に、小さな獣の歩幅が続いている。
やがて清十郎は宿の主人へ目を向けた。主人は囲炉裏の端で、三人の手つきを黙って見ていた。提灯の灯りがその横顔を照らす。
問いかけに、主人は旅人たちが脅されてはいなかったと答えた。怯えて引き立てられた者の足取りではなかった、と。
その証言を聞いたとき、朱音の中で何かがほどけた。境川の社へ向かった旅人たちは、妖異に無理やり連れ去られたのではない可能性がある。もちろん、だから安全だったとは言えない。自ら赴いた先で、何を選ばされたのかまでは分からない。それでも、人と小さな獣の足跡が並ぶこと、宿帳の名が社を指すこと、主人が脅しを見ていないことは、同じ闇の中に小さな道を作っていた。
時雨が朱音のそばへ来た。手にはまだ匂い袋があったが、口は閉じられている。
「朱音さん。主人の証言を加えると、旅人たちは脅されずに社へ向かったようです」
時雨は、宿帳、灰、戸口の順に目を向けた。
「私の失われた処方も関わっているかもしれません。足跡と宿帳を合わせて、社へ向かう前に何を確かめるべきか相談させてください」
処方のことを口にした時雨の指が、また袖口をつまんだ。彼女にとっても、ここはただの宿ではないのだろう。失われた薬草の処方へ通じる糸が、境川の社へ延びているのかもしれない。その不安を隠しきらず、それでも手を止めない様子に、朱音は心を落ち着けた。
「はい。急がず、今あるものを合わせましょう」
朱音は清十郎のところへ行った。今度こそ言葉を整えようとした。主人の証言。宿帳にある社の名。灰の人と獣の足跡。出発するなら、誰が先に立ち、誰がどこを見ればよいか。けれど、口にした途端、また言葉が多くなった。
「清十郎さん、主人の証言を足すと、旅人たちは脅されずに境川の社へ向かったようです。足跡のことも含め、出発前に宿で確かめる順番を決めましょう」
清十郎の眉が寄った。
朱音は、彼が何を考えたかを決めつけなかった。ただ、すぐには同意が返らない。その事実だけが残った。人と妖のどちらも追い詰めずに済む道を探すため、皆の足並みを揃えたい。その思いが強いほど、彼の短い沈黙を拒まれたように受け取ってしまう。
怖さが胸へ戻り、希望の火が小さく揺れた。
だが清十郎は、朱音を置いて先へ行かなかった。彼は時雨のそばへ立ち、宿の主人との間に自分の身体を入れるように位置を変えた。
「時雨、確かめるなら俺が守る。朱音は出入口を頼む」
それは返事の代わりではなかった。今、必要な手順を選んだ声だった。
朱音は自分の頬が熱くなるのを感じた。清十郎は、言葉で全てを繕う人ではない。仲間を守るべきときには、先に前へ出る。そのことを、旅の間に何度も見てきたはずだった。
「分かりました。出入口はわたしが見ます」
時雨は主人へ向き直る前に、二人へ確かめるように視線を送った。
「まず宿帳と足跡の向きを、灰を乱さず照合しましょう。主人には、社へ向かう前に何を見たか尋ねてもよいですか」
「いい。俺が主人との間に立つ。朱音、出入口を見ろ。妙な動きがあればすぐ退かせる」
朱音は頷き、戸口の脇へ立った。護符に手を伸ばすことはしなかった。ただ、外の闇と室内の灯りの境目を見据える。風が吹くたび杉の枝が擦れ、遠くで水の音がした。
時雨は灰の縁から距離を取り、宿帳の名を指で追った。境川の社へ向かった者の名と、足跡が向かう方角を紙片に写すように、丁寧に目で結んでいく。匂い袋も用い、囲炉裏の周りに残る香りの違いを確かめた。清十郎がその横を守るため、主人の前に立つ。主人の言葉と、灰に残った向きと、帳面の行き先に食い違いはなかった。
新しい物語を足すのではなく、既にそこにあった事実を結び直す。その作業が終わったとき、社へ進むための根拠は揃っていた。
朱音は戸口の外を見ながら、深く息を吸った。先ほどの不安は消えていない。それでも、独りで正しさを急ぐより、こうして仲間が持ち寄ったものを照らし合わせるほうが、ずっと遠くまで届く。
時雨が宿帳から手を離すと、囲炉裏の火が小さく弾けた。灰には人と小さな獣の足跡が残り、帳面には消えた旅人たちの行き先が残っている。主人の証言もまた、旅人たちが脅されて社へ向かったのではないことを示していた。
それらは妖異の正体を言い当てる答えではない。けれど、境川の社へ向かうべき理由としては足りていた。
時雨は紙片と宿帳を見比べ、匂い袋をしまった。
「清十郎さん、守りをお願いします。朱音さんは出入口を見ていてください。まず宿帳と足跡を照合し、主人には出発前に見たことを尋ねましょう」
朱音はすでに戸口を見張っていたため、答えずに目と耳を澄ませた。自分が今できることを、今の場所で果たす。清十郎が主人との間を保ち、時雨が灰を乱さぬ距離から最後の照合を進める。その手順には、誰かを疑って追い詰める急き立てがなかった。
宿帳の行き先と、足跡の向き。旅人が脅されていなかったという主人の言葉。時雨が確かめた匂いの筋。ひとつずつは細いものでも、重ねれば、境川の社へ続く道を見失わずに済む。
朱音は障子の外に揺れる杉影を見た。狐火が川への道だけを照らしていたという話を思い出す。あの光が導きなのか、誘いなのかは、まだ分からない。だが、行かずに済ませるわけにもいかなかった。
照合が終わると、清十郎は提灯を持ち直した。火の色が彼の手元で揺れる。朱音は囲炉裏の方を振り返り、灰を見た。人と獣が並んだ跡は、踏み消されずに残されている。宿の中で確かめるべきことは終えたのだ。
「清十郎さん、先導をお願いします」
朱音は言った。
「時雨さんは照合したことを道中でも伝えてください。わたしは最後尾を守りながら進みますね」
清十郎は先に立ち、提灯の灯りを小径へ向けた。時雨はその後ろに続く。朱音は二人の背を見届けてから、最後に宿の敷居を越えた。
境川へ下る小径は、夜露を吸った土がやわらかい。杉の根が地を這い、足を取られやすい場所がある。朱音は舞の足運びで崩れやすいところを選び、仲間との間が開きすぎないよう歩いた。背後の闇から粟立つような敵意は来ない。それでも耳を澄まし、道の端や枝の影を見逃さない。
やがて木立の切れ間に、水の気配が濃くなった。
境川の上には、両岸の世界を結ぶように社があった。