第1話 百鬼灯の辻

夜ごと狐火が道標を入れ替える四辻に、薄い霧が溜まっていた。

踏み固められた土の上で、青白い火が幾つも揺れている。風はないのに、火だけが川のある方角へ首を向けていた。道標の文字は火影に撫でられ、読めそうで読めない。

朱音は辻の端に立ち、地面へ視線を落とした。消えた旅人の足跡を探すなら、狐火の誘いに目を奪われてはいけない。けれど、この土地に棲むものを一方的に疑うことも、彼女にはできなかった。人と妖のあいだで行き違いが起きれば、まず残るのは乱れた土と、言いそびれた言葉だ。

「まず、周りの足跡を順に確かめましょう」

朱音は清十郎を見上げた。

「狐火が道標を変えるなら、争った跡を見落とさないようにしたいの。清十郎さんは、戻る道の様子を見てくださる?」

浪人は四つの道へ順に目を走らせた。暗がりの奥、木立の間、背後へ続くぬかるみまでを測るような視線だった。

「退路と人数は俺が見る。狐火のそばへ寄るな。足跡を追うなら、足元だけを見ろ」

時雨は返事の代わりに、小さくうなずいた。薬師の指はいつものように袖口をつまんでいたが、その目は道端の草へ向いている。土の匂い、折れた若芽の青さ、夜露に混じる人の気配。彼女はそれらを拾い上げるように、朱音の少し後ろを歩いた。

朱音は歩幅を崩さず、辻の外縁から一筋ずつ踏み跡を追った。かかとの沈み、草を避けたつま先、雨上がりの土に浅く残った跡。争いがあれば土は掻き回され、枝は折れ、誰かの焦りが道に滲むはずだった。

けれど足跡は消されていなかった。

狐火は足跡の上を漂いながらも、土を焼かず、輪郭を崩さない。むしろ、青い光が集まる先だけが、川へ向かう道だった。

朱音の腕に、かすかな粟立ちが走った。敵意ではない。気配はあるのに、こちらを追い払う冷たさがない。その感触を胸の奥に留め、彼女は振り返る。

「狐火は足跡を消していません。川へ行く道だけを照らしていますね」

清十郎の顔は硬いままだった。手がかりを急ぎたい思いは、彼の立ち方からも伝わる。彼は時雨のそばへ寄り、低い声で言った。

「時雨。川への道が残っている。足跡もある。川沿いをどう見る」

「俺は護衛を最後まで果たす」と続けた声には、早く決めろという鋭さが混じった。

時雨は眉をひそめた。問いが急だったからか、川辺の危うさを量っていたからか、朱音には分からない。ただ、薬師はすぐに答えず、匂い袋の口を指先で整えた。二人の間に、狐火より細い沈黙が差し込む。

清十郎はそれ以上を言わなかったが、提灯を持たぬ手がわずかに固くなるのを、朱音は見た。

やがて時雨は朱音の方へ歩み寄った。

「朱音さん。狐火は川へ向かう道だけを照らして、足跡も残しているようです」

静かな声だった。急ぐより、確かめる順番を置き直すような言い方だった。

「足跡を追う前に、川沿いの匂いと草の乱れも見ながら進みませんか。人が通ったなら、露の付き方にも違いがあるはずです」

朱音は少し肩の力を抜いた。時雨が見ようとしているのは、旅人だけではない。ここにいる妖の気配も、川辺に生える草の傷みも、道へ残った細い変化も一緒に拾おうとしている。

「ええ。その手順で行きましょう」

川への道へ踏み出す前、朱音は清十郎にも聞こえるように言った。

「時雨さんの見方も合わせます。清十郎さんは退路を見ながら、ついてきてくださいね」

狐火は静かに先を照らした。

朱音は足跡の間隔を数え、草の倒れる向きを確かめながら進んだ。時雨は少し横で、地面近くの湿り気を探る。清十郎は後方と脇道を見渡し、三人の距離が開きすぎないよう歩みを抑えていた。

ところが、道の端に立つ石の影が揺らいだ。

さっき通ったはずの角が、また目の前にある。道標の影だけがするりと位置を替え、同じ道を別の道に見せていた。朱音は足跡を追っていたはずなのに、いつからか自分の足運びまで疑わしくなる。

川の匂いは薄れ、草の倒れ方もどこかで見たような形へ戻った。

「……同じ角を、もう一度通ったように見えます」

朱音は立ち止まった。焦って次の跡へ足を出せば、辻の仕掛けに飲まれる。手がかりを得た喜びは消えていないのに、その下で不安が冷えた土のように広がっていった。

狐火の揺れを背に、清十郎は提灯を低く掲げた。

淡い灯りは地面を丸く照らし、足跡の縁と倒れた草の影を、狐火より正直に浮かび上がらせる。朱音は、彼が光を高く振らないことに気づいた。遠くを見通そうとすれば、入れ替わる道標の影まで目に入る。だから足元と、戻るための間合いだけを測っているのだろう。

「狐火に惑わされている」

清十郎が言った。

「進む前に決める。朱音、時雨。どちらが退路になるか、見立てろ」

時雨は川の方を見た。

「私は川へ向かう道を覚えておきます。お二人は火を見ないで、草の乱れと匂いから戻る筋を選んでください」

朱音は道の土を見比べ、首を横に振った。

「退路を決めるなら、足跡の向きと草の倒れ方を基準にしましょう。狐火の道標は、今は頼れません」

清十郎は短くうなずき、先へ出た。提灯の光が草の根元をなぞる。彼は一歩ごとに仲間との距離を量り、足跡が向く先と、倒れた草が伏せる先を重ねていった。

狐火は川への道を照らし続けている。だが清十郎は一度もそちらを見上げなかった。

やがて、古びた道標の脇で足を止める。

「ここだ」

道標は表から見れば、どこにでもある木の杭だった。清十郎が提灯を傾けると、裏の木肌に削られた細い文字が浮かぶ。妖の爪痕ではない。人の手で、急いで刻まれた筆跡だった。

――杉影の宿で待つ。

朱音は息を呑んだ。旅人が残した言葉なのか、別の誰かが残したものなのかは、まだ決められない。ただ、消えた足跡の先に、宿の名が現れた。

時雨は道標の近くへ寄った。文字と、辻に戻る足跡と、先ほど迷った角を目で結んでいる。

「朱音さん。ここに杉影の宿とあります」

袖口を握ったまま、時雨は慎重に続けた。

「足跡と草の乱れを手掛かりに、宿へ向かう手順を一緒に決めましょう。川沿いの匂いも確かめて、戻る道を先に――」

言葉は途中で細くなった。

いま見つけた文字、何度も同じ角へ返されたこと、川の道を照らす狐火。そのいずれを先に置くか、時雨の言葉はうまく一つに結ばれなかった。朱音は眉をひそめた。急いで宿の名に飛びつくのは危うい。けれど、時雨が何を大切にしようとしているかも分かるだけに、すぐに頷くこともできなかった。

「……順番を、もう少し整えたいです」

朱音はそう言うのが精いっぱいだった。

次に彼女は清十郎のそばへ行き、道標の裏を指で示した。

「清十郎さん、杉影の宿へ向かう前に、足跡を追う道と退路の役割を決めましょう。狐火に惑わされない手順を、あなたの見立てと合わせたいの」

人と妖のあいだで約束を結ぶときと同じように、先頭に立つ者、後ろを守る者、立ち止まる場所を言葉にしておきたかった。言わずに進めば、誰かが善意で踏み出し、別の誰かが守ろうとして、道がずれる。

だが清十郎は眉をひそめた。彼の視線は刻み書きから足跡へ、足跡から暗い川の方角へ動く。

「話は後だ」

低い声が、夜気を切った。

「刻み書きだけで宿へは入らん。俺が先に立つ。時雨は匂いを見ろ。朱音は道の変化を見ろ」

朱音の胸に、言い返せない苛立ちが残った。彼は手順を捨てたいわけではない。依頼を果たすために、確かな痕を先に掴みたいのだろう。けれど、言葉を置く間もなく役目を割り振られると、三人の歩みはまた狐火にほどかれてしまいそうだった。

清十郎は提灯を持ったまま前へ出る。道標の刻み書きが向く先と、足跡の先を照らし合わせ、曲がり角ごとに後ろを振り返った。

朱音は草の根元を見た。時雨は夜露の匂いを追った。

それでも、狐火がふっと跳ねた瞬間、影が入れ替わった。

見覚えのある石、低く垂れた枝、提灯の明かりで一度だけ白く見えた土のくぼみ。清十郎の足が止まる。

また同じ角だった。

宿の名を刻んだ道標は手の届かぬ後ろへ遠ざかり、辻は先ほどより狭く、深く見えた。手がかりを得た代わりに、焦りが三人の間へ入り込んでいる。朱音は狐火を見ず、ただ次に踏むべき土を見つめた。

同じ角へ戻されたあと、時雨が朱音の横に寄った。

薬師の顔は青白い狐火の下でいっそう静かに見えたが、袖口を握る指には迷いがなかった。彼女は足元の草と、辻の外へ延びる暗がりを見比べてから言った。

「狐火で角の見分けが乱れています。私が匂いの筋を追いますので、朱音さんは草の変化を見ていただけますか」

朱音が答えるより先に、清十郎が後方から止めた。

「待て。二人とも匂いを追えば、退路を見る者がいなくなる。俺が退路を測る。朱音は草と足跡を見ろ」

言葉は短かったが、今度は先ほどのように話を切り捨てる響きではなかった。彼はすでに辻と仲間のあいだに立ち、提灯の明かりが届く範囲と、足を引くための土の固さを確かめている。

時雨は清十郎へ小さく頭を下げ、朱音へ向き直った。

「朱音さん、草と足跡の確認をお願いします。私はそばで、匂いの変化と足元を見ます。何かあれば、すぐお伝えします」

朱音は頷いた。

「清十郎さんは退路をお願いします。時雨さんの助けを借りて、わたしは草と足跡を順番に確かめますね」

役目を言葉にすると、胸の内にあったざらつきが少しだけ収まった。先へ急ぐ者がいて、立ち止まる者がいて、横から支える者がいる。そのどれもが欠ければ、辻はまた同じ場所へ三人を返すだろう。

朱音はしゃがみ込んだ。

土には古い踏み跡も新しい踏み跡もあった。狐火の明かりでは深さが曖昧になるため、彼女は指先を使わず、目で土の縁を追った。草の倒れた向き、茎の折れ目、露が拭われた筋。ひとつ確かめるごとに、清十郎のいる方へ一歩で戻れる位置を覚えていく。

時雨はすぐそばで、鼻先をわずかに上げた。川水の冷たさ、杉の樹皮の渋い匂い、踏まれた草から出る青い汁気。それらを選り分けるように、時折、朱音の視線が落ちている場所へ小さく顔を向けた。

「こちらは、草の匂いがまだ新しいです。人が通った跡かもしれません」

朱音は草むらの陰に白いものを見つけた。

草履だった。

片方だけが、泥を浅くまとって落ちている。古びて雨に腐ったものではない。鼻緒にも土の乾きにも、ついさっきまで誰かの足にあったような新しさが残っていた。

その周りを見渡しても、土を激しく蹴った跡はない。草を引きちぎった跡も、引きずられた筋もない。足跡はここで乱れてはいるが、逃げようとも、争おうともした形ではなかった。

「草履が落ちています」

朱音は声を抑えた。

「新しいものです。……持ち主は、争わずにここを離れたようですね」

消えた旅人が何者かにさらわれたのだと、朱音は半ば思っていた。だが草履は、少なくともその想像をそのままには許さなかった。誰かが自分の足で去ったのかもしれない。あるいは争いのないまま、誰かに導かれたのかもしれない。

人と妖の争いを止めたいなら、都合のよい筋書きへ急いではならない。

清十郎は言葉を挟まず、打刀の柄に手を添えた。抜くためではなく、いつでも抜ける位置に置く手だった。彼は二人と辻のあいだに立ち、四つの道を順に見渡す。狐火が動くたび、立つ場所を半歩ずつ改めた。

「二人は続けろ。俺が退路を押さえる。近づくものがあれば知らせる」

朱音は背中越しに、その声を聞いた。清十郎の肩は広く、提灯の光を受けて影を落としている。その影があるから、草履のそばにしゃがんでいられる。さっきまで言葉の行き違いに引っかかっていた心が、少しずつほどけていった。

時雨は草履、道標、川への狐火を順に見た。

「草履は新しく、争った跡はなさそうです」

彼女は道標の裏に残る刻み書きを示した。

「狐火は川へ向かう道を照らし、ここには杉影の宿とあります。手がかりを重ねて、次に進む道を決めましょう」

朱音は時雨の指先を追った。

足跡は狐火に消されなかった。

川への道だけが照らされていた。

人の手で刻まれた『杉影の宿で待つ』。

そして、争いのなさを告げる新しい草履。

どれか一つなら、辻のいたずらかもしれない。だが、互いに食い違わず、同じ先を指している。狐火がすべてを欺こうとしているのではないのなら、少なくとも今、辿るべき筋はそこにある。

朱音は草履の位置を目に焼きつけ、立ち上がった。

「ええ。杉影の宿へ向かう根拠は、揃いました」

声に出すと、怖さが消えたわけではない。それでも、ただ警戒して立ち尽くすのとは違う。何を信じ、何をまだ決めないでおくかが、胸の内で分かれていた。

朱音は川へ向かう道の入口に立ち、二人を振り返った。

狐火は相変わらず青く揺れている。けれど今は、その光だけに従うつもりはなかった。足跡、草履、道標の文字、時雨の拾った匂い、清十郎が守る退路。そのすべてを置き去りにせず、次の場所へ持っていく。

「杉影の宿へ進みましょう」

朱音は柔らかく、けれど曖昧にならぬよう続けた。

「清十郎さん、戻れる目印を浅く刻んでください。時雨さんは匂いの筋と、道が変わる兆しを知らせてくださいね」

時雨は杉並木の暗がりを見やり、頷いた。

「刻むなら、木肌を傷つけすぎぬよう浅くお願いします。私は匂いを追って、道の変化があればお伝えします」

清十郎は答えず、二人の背後と辻の出口を見た。異論を挟む代わりに、提灯を持ち直し、打刀のある腰を道側へ向けた。戻るための道を、最後まで自分の目で量る構えだった。

朱音は先に足場を確かめた。湿った土へ舞のように重心を移し、滑りやすい石を避けて一歩を置く。杉の幹が立ち並ぶ街道は、晩秋の夜気を含んで冷えていた。木々の根元には薄い露が宿り、狐火の色をかすかに映している。

清十郎は道の脇へ寄るたび、杉の木肌へ浅い印を残した。深く傷つけないよう、ごく控えめな目印だった。時雨はその少し前後で、川水の匂いと踏まれた草の気配を探る。

朱音は二人の位置が離れぬ歩調を守った。足跡の続きを探すために進むのだが、急げばまた道に翻弄される。互いの声が届く距離を保ち、振り向けば提灯の灯りが見える距離を保つ。

やがて辻の狐火は背後の木立に隠れた。

杉並木の先に、古い宿の屋根が見えた。人と妖が同じ囲炉裏を囲むという杉影の宿へ、一行は足跡の先を求めて進んでいった。