第6話 剣の記憶
誓剣の回廊で、リゼットが一歩を踏み出した途端だった。
壁に掛けられた歴代近衛の剣と肖像画のあいだを、四人の足音だけが長く往復していた。外の黒雨から隔てられた回廊は妙に乾いている。石壁にも、磨かれた刃にも、水気ひとつなかった。
その静けさへ、低い声が落ちた。
「隊長」
声は最初の肖像からだった。描かれた男の目が、ほんのわずかに動いている。
リゼットの銀灰の長剣が、鞘の内側で震えた。彼女はすぐには柄を抜かなかった。短い黒髪の下で視線を上げ、名を呼ばれた肖像を見返す。顔に覚えがあるようには見えない。それでも剣だけは、この場所を知っているようだった。
エドガーは帳面を胸へ寄せた。肖像が人へ言葉をかけた。まず書くべきことはそこにある。だが、呼び名だけで答えを決めるのは記録者として耐えがたかった。
「一つ目は肖像の年代です。二つ目は剣の紋章を記録します」
眼鏡の奥で肖像とリゼットの腰を見比べ、彼は続けた。
「リゼットさん、銘板と長剣を見比べていただけますか。剣は抜かないままで」
「リゼット、抜く前に足元と退路を見せろ」
すでにガルドは回廊の脇へ寄っていた。傷だらけの丸盾を腕に据え、石床の継ぎ目、壁から張り出した剣架、来た道まで順に見ている。大柄な彼が少し肩を動かすだけで、狭い回廊はさらに細くなった。
「肖像が動くなら、近づく順番を決める」
リゼットはガルドの言葉を遮らずに聞いた。鞘に沿えた手を一度だけ強く握り、頷く。
「ガルド、退路を見ていて。エドガー、剣は抜かずに紋章を記録して」
「承知しました」
ミアは会話に入らなかった。彼女は膝を折り、石床の隅に溜まった薄い灰を指で避けた。乾いた回廊には似つかわしくない薬草の匂いが、ごく弱く残っている。彼女は壁の根元と剣架の脚を見て回り、誰かが隠れて通った跡がないかを追った。やがて何も言わず、立ち上がる。
エドガーは肖像へ近づいた。万一に備えて、ガルドの盾とリゼットの背中を視界から外さない距離で止まる。銘板は新しく磨かれていた。しかし、あるはずの名だけがない。削り取られた跡は古く、金属の地肌が荒れている。
肖像の若い近衛は、リゼットと同じ意匠の剣を佩いていた。鍔に刻まれた紋章も、銀灰の長剣の鞘元にあるものと重なる。違うのは、肖像の剣が絵のなかで静かなことだけだった。
エドガーは帳面を開いた。指先のインク染みが紙を押さえ、筆先が走る。絵具のひび、鎧の様式、剣帯の結び方。見えた事実を順に記してから、彼は近衛の配置記録へ視線を落とした。
回廊の肖像に添えられた断片的な記録と、彼が持つ書き留めとを照らし合わせる。王の間へ通された近衛の名は幾つもあった。だが「最終入室を許可された者」という記載に結びつくのは、この名を削られた若い隊長だけだった。
エドガーは息を止めた。
侵入者を見つけたなら、肖像は警鐘を鳴らしたはずだ。けれど肖像は、刃を抜かなかった。リゼットを見て、ただ隊長と呼んだ。
「記録上、この人物だけです」
声を抑えても、紙を持つ指先は少し硬くなった。
「王の間への最終入室を許可されていた近衛は。銘板の名は失われていますが、剣の紋章と配置の記載が一致します」
リゼットは肖像の剣を見たあと、自分の鞘へ目を落とした。すぐに何かを口にすることはなかった。彼女がこの回廊に許されたのだとしても、そこから王の死までの道筋はまだ暗いままだ。
ただ、肖像の目は彼女を敵として追っていなかった。
エドガーはその事実を、急いでではなく、文字を崩さず帳面に記した。彼らを待っていたのは罠ではなく、中断された任務の続きなのかもしれない。推測はまだ紙に置かなかった。確かな行を増やしてからでなければ、失った記憶の代わりにはならないと、彼は思った。
回廊の中央には、剣を受けるためだけに作られたような低い台座があった。
名のない隊長の肖像から少し離れたその石台は、乾ききった石のはずなのに、周囲だけ灰が薄く渦を巻いていた。リゼットの剣は先ほどより強く震えている。鞘から伝わる細かな響きが、彼女の手首まで届いているようにエドガーには見えた。
ガルドが台座と回廊の両端を見渡した。
「リゼット、剣を台座へ置け」
短く告げてから、彼は一歩前へ出た。丸盾を構え、台座の脇ではなく、リゼットが退くための空間を背にする。
「俺が退路を守る。ミア、灰を見ろ。エドガー、幻を覚えろ」
「承知しました」
エドガーは帳面を閉じ、両手で抱え込んだ。記録すべきものが現れる前に紙へ視線を落としていては意味がない。彼は台座の正面から少し外れ、全体が見える位置を取った。
ミアはしゃがみ、石台の縁に寄った灰を見つめた。彼女の指は床へ触れず、流れだけを追っている。
リゼットは仲間を順に見た。ガルドが退路を押さえ、ミアが足元を見ている。エドガーもいる。彼女は頷き、銀灰の長剣を抜いた。
刃が空気を切った瞬間、回廊の古い剣という剣がかすかに鳴った。
彼女は長剣を台座へ置く。
灰が下から巻き上がった。火ではない淡い光が石台を満たし、壁も天井も遠のく。乾いた回廊の中央に、別の場所が立ち上がった。
王の間だった。
広間の奥に、灰の冠を戴いた王がいる。顔は影に沈んでいたが、立っていること自体が苦しいらしく、肩は重く落ちていた。
その前にいるのはリゼットだった。
幻の彼女は、王の胸へ長剣を向けている。踏み込めば届く距離だ。剣先はまっすぐで、躊躇のない構えに見えた。
エドガーの喉がひどく乾いた。王殺しという言葉が、ようやく形を持って目の前に出てきた。記録に残された罪状は、あまりにも短かった。誰が、いつ、なぜ、王を殺したのか。肝心な部分ほど失われていた。
けれど、王は避けなかった。
王は震える腕を上げ、剣を握るリゼットの手を取った。止めるためとも、助けを乞うためとも違って見えた。灰冠の下の口元が動く。何かを頼んでいる。声は届かない。
リゼットの横顔が強ばった。彼女は幻のなかの自分の腕を、まるで他人のものを見るように見ていた。
次の瞬間、幻は途切れた。
剣先が王へ届く寸前だった。
灰は床へ落ち、台座の上には再び銀灰の長剣だけが残る。回廊の空気が戻ったとき、エドガーは自分が息を止めていたと知った。
「最後までは見せませんでした」
彼は静かに言った。見たものを先に置き、そこへ意味を足さないようにする。
「ですが、王は刃から逃げていません。リゼットさんの手を取っていました」
リゼットは答えなかった。剣の柄を握る手は固い。それでも彼女は、王が助けを求めたのではなく、何かを渡そうとしたような感触を、言葉にしないまま受け取っているようだった。
その沈黙を裂いたのは、剣架の向こうで鳴った硬い音だった。
ミアが顔を上げる。
「剣架。裏」
エドガーが近づく前に、剣架の背後の石板が低く沈んだ。そこから、紙が一枚、風もないのに滑り出してくる。水に濡れたはずの地下から来た紙は、端が黒ずみ、何度も折られた跡を持っていた。
ミアが前へ出た。彼女は紙そのものへすぐ手を伸ばさず、周囲の灰と石板の隙間を確かめる。エドガーはその横へ膝をつき、見つかった署名と移送印を読み取った。
「署名と移送印はあります」
防衛のための石と剣架へ向け、彼は順序を崩さず告げた。
「失われた頁を回収しに来ました。通してください」
ミアも短く続ける。
「署名と移送印はある。失われた頁を回収しに来た。通して」
返事は人の声ではなかった。剣架の奥で歯車のような石が噛み合い、紙がさらに差し出された。
エドガーは頁を受け取った。
そこに記されていたのは、四人の処刑命令ではなかった。アステル王自身の命令だった。王殺しと呼ばれる四人は、王の間へ入ることを命じられていた。少なくとも、王の前へ踏み込んだことだけは、彼らの勝手な侵入ではない。
目で読んだ文字が、胸の内側で重く沈む。
「王の命令です」
エドガーは頁から目を離さずに言った。
「私たちは、処刑のためではなく……王自身の命令で王の間へ入っています」
その確認を待っていたように、回廊の天井から鐘が鳴った。
一度。次にもう一度。遠い地下で聞いてきた鐘の響きが、今度はすぐ頭上で鳴っている。
『証拠の提出を確認する』
鐘守の声が回廊全体へ広がった。どこに口があるのか分からない。肖像の唇は動かず、壁も石床も同じ声を返している。
『次の審理の場、灰の法廷へ出頭せよ』
エドガーが頁を抱え直した途端、両側の肖像が一斉に動いた。
描かれた近衛たちが、絵のなかで刃を抜く。額縁を打つ金属音が連なり、回廊の正面に防衛の線ができた。剣架の裏には、人ひとりがようやく身を縮めて通れそうな暗い隙間も見える。
前へ進めば、肖像の刃を越えなければならない。誰かが傷つく。
脇の整備路を使えば、刃は避けられるだろう。だが、頁を細く裂かなければ通せない。王の命令を示す文の一部が失われる。
エドガーは紙の端を見た。濡れた記録庫で、すでに多くが滲んでいた。ここでさらに裂けば、残った文字まで疑いの余地に変わる。
けれど、人を傷つけずに進める道もある。
どちらを選んでも、失うものは決まっていた。
肖像の剣が、額縁のなかで揃って持ち上がっていた。
正面の扉までは遠くない。だが数歩ごとに、絵から突き出す刃が道を塞いでいる。剣架の裏の整備路は、エドガーが頁を横にしても通らないほど狭く見えた。
リゼットは回収した頁を見た。彼女の顔に迷いはほとんど出なかったが、長剣の柄へ置いた指が止まっている。王の命令を欠けさせたくない。その紙は、彼らが何者だったかを法廷へ持ち込むための、初めて確かな証拠だった。
「ガルド、先頭を頼む」
彼女は低く言った。
「私が最後尾で防ぐ。頁は裂かない。王の命令を欠けさせたくない」
ミアは剣架の裏の暗がりを見たまま、すぐに反対した。
「頁。裂くな」
彼女の目は紙の繊維ではなく、失われる文字を見ているようだった。
「整備路なら、私が先に通して受け取る」
細い道を使うこと自体はできるかもしれない。だが頁は、裂かずには通らない。エドガーにも分かっていた。
「正面を抜ける」
ガルドが盾を上げた。
「俺が先に刃を引き受ける。リゼットは頁を守れ」
その背中は回廊の幅を塞ぐほど大きい。彼が前へ出れば、仲間に向く刃を減らせるだろう。けれど防衛線を越えるなら、盾だけで済まないこともエドガーには見えていた。
彼は頁の端と整備路の入口を見比べた。力で道を作る役には向かない。だからこそ、まだ確かめられることを言った。
「正面突破では頁も人も危険です」
声が少し長くなる。焦っていると自覚しながら、彼は言葉を選んだ。
「整備路なら、頁を裂く前に通せる幅があるかだけ、確認できませんか」
誰もすぐには動かなかった。
整備路の闇は細く、紙を傷めずに通す余地を示さない。肖像の剣は待ってくれない。鐘守の声が、壁の内側でまだ残響している。
リゼットはミアの言葉を聞き、ガルドの盾を見て、エドガーの頁へ視線を落とした。異論を一つずつ受け取ったあと、彼女は決めた。
「ガルド、先頭を頼む。私が頁を守って最後尾を支える。行こう」
ガルドが頷いた。
「行くぞ」
彼が正面へ踏み込む。最初の肖像の刃が額縁から突き出た。ガルドは丸盾を斜めに立て、金属の衝撃を受け止める。鈍い音が回廊を叩いた。
エドガーは頁を抱え、ガルドが開いたわずかな隙間を抜ける。刃が盾の縁を滑り、石片が足元へ降る。ミアは低く身を縮め、崩れた石を避けて進んだ。
リゼットは最後尾に残った。
彼女は銀灰の長剣を構え、迫る刃と石片のあいだへ立つ。刃が動くたび、剣の周りに薄い灰色の光が広がった。灰は壁の崩れを押しとどめ、石片の落ち方を逸らす。彼女自身だけでなく、前を行く三人と、エドガーの腕のなかの頁まで覆うように。
だが、守りきることは痛みを受けないことではなかった。
防衛像の刃が彼女の身をかすめ、弾かれた石片がぶつかる。リゼットの足が一度よろめいた。それでも彼女は頁へ手を伸ばさない。紙はエドガーの腕のなかにあり、文字も端も欠けずに残っている。
「リゼットさん」
出口側へ抜けたエドガーは振り返った。彼女が最後の一歩を越えたとき、張りつめていた肩が落ちた。
ガルドがすぐ近くへ回り、彼女の体を支える。エドガーも頁を濡らさぬよう片腕で抱えたまま、空いた手を差し出した。リゼットは頼ることを拒まなかった。自分で歩こうとする力は残していても、仲間の支えを借りて足を進める。
帳面を守るのと同じほど、今はこの頁を守る意味があった。だが紙が完全であるために、リゼットが傷を負った。
エドガーは頁の文字を見た。王の命令は残った。彼女が選んだのは、その言葉だけではない。彼ら四人の過去を、切り取られない形で運ぶ道だった。
肖像の防衛線を抜けた先で、回廊は途切れていた。
出口の向こうに、灰を敷き詰めた円形の法廷が口を開けている。席は石で作られているのに、そこには誰もいない。中央だけが空席になっていた。
エドガーは立ち止まり、まず仲間を確かめた。ガルドは前を見たまま盾を下ろさず、ミアは入口の灰と足元の石を見ている。リゼットは支えを借りながらも、頁のあるほうへ視線を向けていた。
紙は無事だった。
王が彼らを王の間へ入れたという文面も、端まで残っている。失った記憶を取り戻したわけではない。王の死の瞬間も、王が何を託そうとしたのかも、まだ分からない。それでも、王殺しという名だけを背負ってここまで来たときとは違う。
エドガーは頁を厚手の上着の内側へしまい、リゼットへ向き直った。
「リゼットさん、無理はなさらず、私たちの歩調に合わせてください」
彼女へ届くよう、急がずに言う。
「頁は確保しました。全員で法廷へ進みましょう」
彼は先に一人で踏み出すのではなく、四人が揃っていることを確かめた。ここへ来るまで、何度も足場を失いかけ、濡れた記録を前にしてきた。今度は誰かを置いていくための道ではない。
一行が法廷の縁を越えたとき、鐘守の声が響いた。
もう壁からではなかった。声は円の中心、誰も座らない空席から聞こえる。
『被告よ。王の死ではない。おまえたちが何を見捨てたのかを証言せよ』。