第4話 鐘守の声

二度目の鐘が鳴った瞬間、螺旋階段の先頭の段が、音もなく石壁へ呑まれた。

リゼットの携帯灯が照らしたのは、湿った壁と、そこに残された段の切れ端だけだった。その先には底の見えない黒い空洞が口を開け、下から冷たい風を吐き上げている。背後では、半ば閉じた石扉がゆっくり石を擦らせていた。戻る時間まで、階段は待ってくれない。

ミアは膝を折り、残った段の縁へ指先を近づけた。触れはしない。濡れた石の上に、灰がごく薄く筋を作っている。風の流れと、段が引き込まれた方向。そのどちらも、まだ意味をひとつに決めるには足りなかった。

「縄を張ろう」

彼女は段から目を離さずに言った。

「段が消える間隔を見てから降りる。鐘が鳴るまで、下には触れない」

「分かったよ、ミア」

リゼットは灯りを少し掲げ、壁際の踊り場と、残った柱を見比べた。短い黒髪の輪郭が、灯りの下で硬く見える。

「ガルド、縄を張って。私が先に段の動きを見る。危険ならすぐ退く」

エドガーは帳面を厚手の上着の内側から出した。眼鏡の向こうで、消えた段の位置を一度確かめてから、筆先を紙へ置く。

「リゼットさん、段の数と消えた位置を記録します。鐘の間隔も数えましょう。戻る判断を、私が見失わないために」

ガルドは答えず、柱と空洞のあいだに立った。彼の大きな背が、灯りを半分遮る。下から上がる風へ耳を澄ませ、石床を靴底で確かめる。縄を扱うのは彼だけだった。麻縄を柱へ回し、結び目を引き絞ると、繊維が低く軋んだ。

鐘が遠くで鳴った。

石壁から、段がせり出した。

四人は息を止めるようにして動いた。リゼットが灯りを前へ出し、ミアは灰の筋を追い、エドガーは小さく数を刻んでいる。ガルドの縄を頼りに、ひとつ、ふたつ、段を下る。

だが鐘の余韻が消えたとき、縄を結んだ位置が悪かったと分かった。

段が壁へ戻るのに引かれ、縄は角張った石の縁へ強く擦れた。乾いた繊維の裂ける音が、暗い階段によく響いた。ガルドが即座に縄を引き、全員は足場の残る側へ身を寄せたが、縄の表面には白い傷が走っていた。

先へ進むことはできる。けれど、ここを戻るための一本は、もう頼れるほどきれいではない。

ミアは傷んだ縄を見た。手掛かりを失うことが、彼女には怖かった。前にも、黒雨の水に土の足跡も白い布も呑まれていった。追うべきものの痕跡は、急いだために消えた。だから今度こそ残したかったのに、残すための縄が、退路を傷つけてしまった。

同じ結び方を、同じ場所で繰り返す余裕はない。

リゼットが柱へ灯りを寄せた。

「ガルド。縄を結ぶ前に、柱の根元を見て」

彼女は剣の柄へ手を添えたまま、壁際と段の向きを見た。

「エドガーは鐘の間隔と、段が消える向きを。今度は逃げ道を残して降りよう」

「分かった」

ガルドは傷んだ箇所を避け、柱の根元へしゃがみ込んだ。

「急がない。擦れ跡がある側を使う」

ミアも柱の足元へ寄った。灰は石の窪みで細く淀み、風の抜ける側へ途切れていた。彼女はその流れと、柱の縁に残る傷を交互に追う。

「擦れ跡だけじゃない。灰の流れも見る。縄が逃げ道を塞がない場所を探す」

エドガーは口を挟まず、帳面に鐘の余韻を書き足していた。彼が記録に集中するあいだ、リゼットは剣を抜かず、いつでも抜ける角度で柄を握っている。

ガルドの指が柱の根元に触れたとき、古い擦過痕が灯りの中に浮いた。新しい縄の傷ではない。何度も何度も同じあたりを擦った、複数の太い筋だった。石の粉が、その溝に黒く溜まっている。

次の鐘が鳴る。

せり出した段は、ただ現れたのではなかった。鐘が響いているあいだだけ、次の踊り場へ届く形に石壁から伸びていた。音が尽きれば引っ込み、空洞を戻す。

ガルドが結び直した縄は、古い擦過痕の向きに沿っていた。踏み外しても、深くは落ちない。けれど縄の古傷と、ここを通った者たちの残した跡は、誰かが以前にもこの階段を越えたことを示していた。

ミアはその傷を見つめた。

自分たちだけの罠ではない。誰かが降りた。あるいは、何度も降ろされた。

答えはまだない。ただ、失敗して傷んだ縄のそばに、消えずに残ったものがあった。彼女はその事実を胸の内に置き、鐘の鳴る間だけ現れる段へ視線を戻した。

エドガーが壁の文字へ携帯灯の光を寄せた。

湿った石に刻まれた文字は、最初は古い祈りのように見えた。彼は帳面を開き、インクの染みた指で紙を押さえる。鐘が鳴る前の列を写し、余韻が残るあいだに次の列を追った。

「リゼットさん、ガルドさん、ミアさん。縄を張る前に、鐘と文字の順序を確かめます」

彼の声は丁寧だったが、筆先は急いでいた。

「段が出る条件が分かれば、皆さんを迷わせずに済みます」

鐘が鳴った。

石の文字が、ぬるりと裏返った。

さっき写した一行は消え、別の文が同じ場所に現れる。エドガーが写し取ろうと目を寄せるほど、鐘の余韻に合わせて壁面は反転を繰り返した。文字列は順序を替え、隣り合うはずのない言葉を並べる。王の罪を述べる文と、四人を責めるらしい文が混じり合い、紙の上にも乱れた列が残った。

「……順序が違います」

エドガーは帳面を閉じかけ、すぐに開き直した。

「観察できた事実は、壁が鐘のあとで文字を入れ替えることです。ですが、王への罪状と、私たちへの告発らしい文が意図的に混ぜられています。このまま急いで読めば、誤ります」

ミアは壁ではなく足元を見た。文字に気を取られるほど、段の出入りを見失う。さっき傷めた縄が、柱から暗がりへ細く伸びている。これ以上、同じやり方で時間を落とせば、戻れなくなる。

ガルドが壁を睨みつけた。

「罪状を読むな。鐘が鳴る間だけ段が出るなら、俺が縄を張る。次の音で一気に降りるぞ」

「ガルドさん、急ぐほど、また足場を誤ります」

エドガーは乱れた文字を見たまま言った。

「文字は読まず、次の鐘で段が出る位置だけ数えましょう。縄を頼りに降りるのです」

リゼットは何も言わなかった。彼女は長剣を抜き、崩れやすい段へ目を配った。剣先が灯りを拾い、その銀灰が濡れた石に鈍く光る。

「鐘」

ミアは灰の細い筋を指で示した。

「次の音まで、灰の流れだけ見る。縄の通り道を塞ぐ場所は避けて」

ガルドは一度だけ頷いた。

「エドガー、音を拾え。ミア、灰を見ろ」

鐘が、また鳴った。

今度は四人とも文字を追わなかった。エドガーは響きの始まりと終わりを数え、ミアは風に動く灰を見、ガルドは縄の張り具合を確かめる。リゼットは前へ出ず、仲間の足元が揃うのを待った。

そのとき、文字の一部だけが鐘のあいだに読めた。

『雨を放った』。

次の鐘で、『民の記憶を奪った』。

さらに次で、『冠を拒まなかった』。

どれも時刻でも祈りでもなかった。灰冠王に向けられた罪状が、一鐘ごとにひとつずつ、冷たい石から数え上げられていた。

最下部に近い文字には、別の筆跡が混じっていた。刻みは浅く、急いで彫られたように見える。そこに残った一文を、ミアも読んだ。

『証拠は雨封じの記録庫に保管する』。

記録庫。行く先の名が初めて形になった。

ミアは下の闇へ向き直った。自分たちが何者か、本当に王を殺したのか。答えに届く紙が、そこにあるかもしれない。けれど、壁の奥にいる何者かもまた、彼女たちを知っているらしかった。

彼女は石壁へ声を投げた。

「私たちを知っている理由を言って」

返事はなかった。

代わりに、階段の下から鐘が連続して鳴った。

一度、二度では終わらない。音が重なるたび、踊り場にあった灯りが沈んだ。リゼットの携帯灯さえ、壁へ薄い円を置くばかりになる。闇の奥に誰かの姿は見えない。それでも、こちらがどこに立ち、何を見ようとしたか、その誰かには分かっているようだった。

ミアは喉の奥で息を止めた。問いが届かなかったのか。問いそのものが、相手にとって挑発だったのか。判断はできない。ただ、声を重ねれば状況がよくなるとは思えなかった。

リゼットが、灯りの下で碑文の写しを開いた。紙を守るように指を添え、壁文字と見比べる。

「エドガー、罪状に混じった告発を見分けられる?」

彼女の声は低かった。

「私たちの来歴を知る手掛かりかもしれない」

「今の文字だけでは断定できません」

エドガーは答えた。眼鏡の奥の目は、壁と帳面を忙しく往復している。

「ただ、王の罪状とは筆跡が違います。その差を手掛かりに、告発だけ拾いましょう」

ミアは壁を見上げた。自分の問いに鐘が返ったことが、まだ耳に残っている。

「壁の声は、文字の告発と同じ筆跡か。違うなら、声の主も記録を知っているかもしれない」

リゼットは写しを閉じ、石壁へ正面から向き直った。

「エドガー、筆跡の違いを手掛かりにする」

彼女は銀灰の長剣の柄を握った。

「声の主。私たちを知っている理由を答えて」

鐘の音が、ぴたりと止んだ。

沈黙のあと、壁の奥から声がした。男とも女とも分からない。石を通しているせいで、言葉の端が乾いていた。

『昨日よみがえった被告よ』

ミアの背筋が冷えた。

『地下には、王殺しを裁く場がある。最初の証拠を持参せよ。銀灰の長剣を、雨封じの記録庫へ』

声は剣を求めた。だが、リゼットとも、ミアとも、誰の名も呼ばなかった。

その直後、背後の石扉が大きく軋んだ。

半ば閉じていた扉が、今度は完全に閉じようとしている。同時に、縄を結んだ柱の根元から石の欠片が落ちた。古い擦過痕の走る柱が、重みに耐えきれず傾き始める。

最後の踊り場が、下方に見えた。そこを越えれば記録庫へ続く。

だが柱と縄を残せば、全員の退路は保てる代わりに、支える者が崩れた石のそばに残る。縄を切って駆ければ全員は崩落から離れられるが、階段に残した通行の痕跡も、鐘と段の順序を確かめ直す手段も失う。

ミアは柱の擦過痕を見た。ここを通った者の数少ない手掛かりだった。捨てたくない。

けれど、崩れる石の音は、手掛かりを抱えたまま待つことを許さなかった。

「ガルドさん、柱を支えてください」

エドガーの声が、崩落の音に負けないように張られた。彼は記録帳を胸へ抱え、石扉と最後の踊り場を見た。

「私たちは記録庫へ急ぎます。退路より、まず皆さんの命を守りましょう」

ミアは反射的に柱の傷へ目を向けた。縄の擦れ、古い通行の跡、鐘の順序。すべてを置いていくのは惜しかった。黒雨に呑まれた足跡を、彼女はもう取り戻せない。ここに残る痕跡まで失えば、何を頼りに先へ進むのか。

だがガルドが崩れる柱の前へ入るのを見て、言葉を選ぶ暇は消えた。

「柱の擦過痕。通った者の手掛かりだ」

ミアは言い、それでも声を強めた。

「でもガルド、危なくなったらすぐ切って」

「エドガー、私も先に渡る」

リゼットは長剣を手にしたまま、現れている段へ踏み出した。

「ガルド、無理なら縄を切って。ミアを優先して行こう」

ガルドは返事を短く切った。

「行け」

彼が麻縄を引き、柱へ肩を当てる。鎖帷子の輪が石に擦れ、丸盾が崩れかけた側へ向けられた。彼は説明をしなかった。ただ、石が落ちる場所に身体を置いた。

リゼットが先に渡った。携帯灯を高く掲げ、最後の踊り場の端から振り返る。ミアはその光を目印に、縄へ手を伸ばさず、足場の灰が流れない箇所を選んだ。

鐘が鳴っているあいだだけ、段はある。

ミアが一歩を置くたび、後ろで柱が呻いた。石の粉が肩へ散る。彼女は振り返らなかった。振り返れば、残したい痕跡と、いま助けるべき人のあいだで足が止まると思った。

最後にエドガーが渡ろうとしたとき、柱が大きく傾いた。

彼は帳面を守る腕をほどけず、足場の端で身を崩した。石の欠片が落ち、彼の身体を打つ。息を詰まらせた彼の腕を、こちら側にいた仲間が掴んだ。

「エドガー」

ミアは彼の手を離さなかった。彼の重みが細い腕へかかり、足裏の石が濡れて滑る。それでも、最後の一歩を引き寄せた。

エドガーは踊り場へ倒れ込まず、膝をついて帳面を抱え直した。顔色はさっきより白い。石に打たれた痛みを、彼は呼吸の浅さでしか見せなかった。

「大丈夫です、と言いたいところですが」

彼は息を整えながら、かすかに首を振った。

「急ぎましょう。記録庫まで、もう足場を戻される前に」

ガルドが最後に柱から離れた。彼の後ろで、石扉が閉じる響きと、柱の崩れる鈍い音が重なった。

縄は残った。傷んだ一本が、崩れかけた柱と退路をつないでいる。すべてを守れたわけではない。支えたために、エドガーは傷を負った。それでも四人は安全な足場へ揃い、記録庫へ入る道を確保した。

ミアはエドガーのそばに立った。彼の記録帳は濡れていない。残したものもある。

だが、ここで立ち止まれば、次に何が崩れるか分からなかった。

階段の終わりに、石室の扉があった。

戸の向こうには、黒雨を弾く硝子戸棚が幾つも並んでいる。硝子の内側には無数の文書が詰められていた。紙は濡れ、端から黒く滲み、読めない塊になっているものも多い。

それでも石室の中央だけは違った。

数枚の紙が、不自然なほど乾いたまま残っている。

リゼットが先へ進み、灯りを室内へ向けた。彼女の銀灰の長剣に付いた光が、乾いた紙のほうへかすかに返る。壁の声が証拠として求めた剣は、ここへ導く印のようにも見えた。

ガルドが背後の階段を一度確かめたあと、低く言った。

「リゼット、先を見ろ。ミアはエドガーを支えろ。俺が最後に入る」

ミアはエドガーのそばへ寄った。彼は記録帳を抱えたまま立っている。傷を負ったことを口にはしないが、歩幅はさっきより小さい。

彼女は石室の中央を見た。

濡れた文書の海に、乾いた数枚だけが残されている。王の罪状、四人への告発、昨日よみがえった被告という呼び名。そのどれが真実なのか、まだ紙は開かれていない。

四人は揃って、雨封じの記録庫へ入った。