第3話 魔女の星信号

古代魔法で航行する盗難船アルシオンの発進装置は、眠っているのに熱を持っていた。

ノエミは装置の前に膝をつき、青白い導線が床下へ沈み、壁の奥へ分かれてゆくのを目で追った。帝国軍の新しい封印は係留鎖の根元に重ねられ、その下には古い魔女の符号が残っている。どちらも起こせば厄介だ。いま必要なのは力ではない。順序だった。

「ロカ。桟橋が空く時間を使うなら、先に船内の配置を確定する。帝国の封印を誤って起こせば、奪還どころか信号も逃す」

ロカは船室の入口近くに立ち、港へ通じる方角へ一度だけ目をやった。巡回の空白は短い。だが、彼は急かさなかった。見張りの姿勢のまま、ノエミの手元を見ている。

ヴェスパーは記録板を胸の高さに構えた。

「確認の順序を記録します。発進装置を目視し、係留鎖と封印には手を出さない。その後、信号に関わる記録の位置を探します」

ノエミは返事の代わりに、細い導線の一つを指でなぞった。発進装置から機関の接続へ。そこから記録機構へ。そして係留鎖の操作系へ。船を知る者なら、流れは読める。問題は、その流れへ誰かが何を重ねたかだった。

発進装置の縁に刻まれた識別符号を見つけたとき、彼女の指が止まった。失踪した第四の魔女に結びつく符号。その近くで、魔女の符号を使った信号が脈打っている。

だが、導線は船外へ抜けていなかった。

ノエミは視線を上げる。

「信号は外から来ていない。発信源は、この船内だ」

ロカがヴェスパーの傍へ寄り、記録板に映る線を指先で追った。

「ヴェスパー、船内からなら話は早い。……いや、早くはねえか。発進装置と記録のつながりを見比べようぜ。封印を起こさず辿れる順番を決める」

軽い調子を作っているが、指の動きは慎重だった。ロカは操舵手であり、船が一度でも間違った応答を返せば、逃げ道そのものが閉じると知っている。

ヴェスパーは彼の示した接続を記録板へ写し取った。

「観察できた接続から整理します。推測は別に記します」

短く頷くロカを横目に、ノエミは航路の魔女の星図を取り出した。紙面に描かれた古い方位と、発進装置から延びる線を重ねる。ヴェスパーが近づき、星図と装置の間に落ちる淡い光を覗き込んだ。

「ノエミ、発信源は船内です。発進装置と星図を照合し、魔女の符号を追える順番を決めましょう。封印を刺激する前に、確認すべき場所を絞ります」

「第四の識別符号を基準にする。既知の符号と重なる場所だけを拾う」

ノエミは星図の端を押さえ、接続ごとの位置を読み始めた。読めるはずだった。船の骨組みも、魔女の符号も、彼女にとっては見慣れた言葉だ。

しかし、信号が急に濁った。

耳には届かないはずの音が、歯の奥でざらつく。記録の刻みが雑音に覆われ、符号の並びから肝心な一節だけが抜け落ちた。ノエミは星図を見つめたまま、次の印へ進めなかった。

「……読めない」

苛立ちが声を硬くした。失ったのは一節だけだ。それでも、一節がなければ進行方向は決められない。

彼女は星図を畳まず、装置から少し距離を取った。

「ロカ、封印に触れる操作はまだ待て。ヴェスパー、符号の再読も止める。雑音が濃い。先に信号の系統を絞る」

分かった事実はある。信号は船内から出ている。

だが、その船内で何が応じているのかは、まだ雑音の向こうだった。

ノエミが符号を読むのをやめると決めた直後、ロカは発進装置の脇へ回った。

「雑音が増えたなら、無理に読むな。港の霧みたいなもんだ。中へ突っ込むより、道筋を見た方が早い。俺たちで仕掛けを追って、発信源を絞ろうぜ」

ヴェスパーも記録板を閉じかけ、頷いた。

「符号を追うのは中断します。私は接続を目で追います。ノエミは操作をせず、確認できた箇所を記録してください」

「わたしも追う。雑音の中で符号を読むのは止める」

ノエミは言い切った。船の構造からなら、戻れる。発進装置から延びる導線を、ロカが一本ずつ追っていく。彼は係留鎖の封印に近い枝を避け、壁板の隙間、床の継ぎ目、古い機器の背後へと視線を走らせた。ノエミとヴェスパーが見ている場所に合わせ、分岐を指で示す。

やがて、雑音の切れ目に小さな反復が現れた。

三度。

互いに似ているが、同じではない短い合図が、信号の周期へ一度ずつ混じる。ノエミは息を止めた。

「三つある」

ロカの指が、三つに分かれた導線の上で止まった。

「三人の魔女だけが知る合図だ。ひとつずつ、混じってる」

それは観察できた事実だった。誰が送っているのかは、まだ決められない。だが、信号が無秩序な雑音ではないと分かっただけで、ノエミの胸の底に小さな熱が戻った。

ヴェスパーはノエミの隣に立ち、三つの合図が現れた順を記録板に並べた。

「確認済みの接続と、発信源の推測を分けます。ロカが追った分岐と合図の順序を照合し、次に確認する系統を選びましょう」

「そうする。中枢の位置はまだ仮説だ」

ノエミは発進装置の周囲を回り、ロカが示した分岐の先にある機器の配置を確かめた。発進用の導線、記録用の機器、係留鎖へ通じる操作系。そのうち帝国の封印に近いものを外し、三つの合図が通過できる余地を持つ枝だけを残していく。

船の造りは嘘をつかない。少なくとも、配置はそうだ。

最後に残った導線の先には、古い記録機構があった。ノエミは外装の刻みを読んだ。最後の通信記録の日付を確かめた瞬間、指先が冷えた。

失踪の日より新しい。

「記録が残っている。失踪後のものだ」

ヴェスパーが記録板を近づける。

「日付の比較を確認します。最後の通信は、失踪の日より後です」

ならば、今も誰かが中枢を操作している可能性がある。ノエミはそう口にしかけ、飲み込んだ。可能性は事実ではない。

ロカはすでにヴェスパーの方へ向いていた。

「失踪後の通信が中枢側にあるなら、動いてる中枢を探す。俺たちが外宇宙へ出る道も含めて、記録板と接続を突き合わせようぜ」

ヴェスパーの眉がわずかに寄った。否定の言葉はすぐに出なかった。記録板の上を視線が動き、やがて止まる。

ノエミには、彼が何を考えたかは分からない。ただ、いま向かうべき場所を決めるには、まだ枝の確定が足りないことだけは共有していた。

ロカの言葉は宙に残った。

船内に誰かがいるのか。

それとも、誰かが遠くから中枢だけを動かしているのか。

「中枢へ向かう前に、順序と分岐を照合します」

ヴェスパーは記録板を開き直した。

「ロカ、先ほど示した分岐を、もう一度お願いします」

「ああ、ここだ。だが中枢へ直行はまだ危ねえ。三つの合図が通った枝だけ、先に絞ろうぜ」

ロカが指す導線を、ノエミも見た。中枢を操作する者がいるとしても、正体も居場所も分からない。分からないものへ船を向ける前に、通る枝を確かめる。判断としては正しい。

「順序と分岐を先に照合する。中枢を動かす者が誰か、まだ断定できない」

ヴェスパーは三つの合図を並べ、ロカの指した枝を一本ずつなぞった。ノエミが絞った導線の配置と重ねる。その手際はこれまでどおり正確に見えた。

だが、信号の雑音がまた割り込んだ。

記録板の淡い光が乱れ、ヴェスパーの手元で火花のような明滅が走る。彼は手を引いたが遅く、腕を傷めて膝をついた。記録板は床に落ちず、かろうじて抱え込まれた。

「ヴェスパー」

ノエミが駆け寄るより早く、ロカがその前へ出た。雑音は重要な一節をまた覆い隠し、照合は核心へ届かなかった。無理をした代償だけが、船室の静けさに残る。

ノエミは傷んだ腕と、封印に近い導線を見比べた。急ぐほど、選択肢が狭くなる。

「ロカ、急がず進める。わたしが危険な枝を先に見分ける」

彼女はロカのそばで分岐を指し、帝国の封印へ近づく導線を避けようとした。だが、船の導線は一見して交わり、古い改装の跡が判断を鈍らせた。ロカが次に確かめようとした枝と、ノエミが止めようとした枝が噛み合わない。二人は手を触れさせずに止まったが、連携は形にならなかった。

ノエミは唇を結んだ。ヴェスパーを守ろうとして、かえって手順を乱した。

その沈黙を断ち切るように、ロカが腰の包みを取り出した。

「ヴェスパー、先に傷を塞ぐ。記録板は……そこに置いとけ。無理に動くな」

冗談はなかった。使い込まれた非常食の包みを開き、布を取り出してヴェスパーの腕に当てる。ロカの手は操舵のときと同じで、迷わず圧をかけた。包みひとつを失うことより、ここで記録者を失速させる方が高くつく。ノエミはその判断を見て、周囲の導線を見張った。

しばらくして、ヴェスパーの呼吸が整った。

「助かります」

その声に力が戻るまで、ロカは布を押さえる手を離さなかった。

やがてヴェスパーは、手の届く位置に置かれた記録板へ目を向けた。

「次は、私がノエミを補います。無理に中枢を特定しません。方位から、危険な枝を分けます」

ノエミは止めかけた。傷を負ったばかりの相手に任せることへのためらいがある。だが、ヴェスパーの指は落ち着いていた。記録板に示された導線と、ノエミの星図にある古い方位を重ね、封印へ近い枝と、三つの合図が通った枝を順に分けていく。

「こちらは封印に接続します。こちらは合図の通過が確認済みです。次に確認するなら、この範囲に限るべきです」

観察と推測が混じらない言い方だった。

ノエミは、示された範囲を見た。さっき一人で読めなかったものが、ロカの目で追った線と、ヴェスパーの方位で輪郭を得ている。

「分かった。次は、わたしが番号で絞る」

雑音はまだ消えていない。傷も、使った非常食も戻らない。

それでも、避けるべき枝は前より明確になっていた。

ノエミは発進装置から続く分岐の前に立った。ヴェスパーが分けた方位の範囲を視界の端に置き、機器の銘板を一つずつ読んでいく。

「導線の共通枝を、機器番号で絞る。ロカはまだ触れず、該当枝を示してくれ」

「分かった。番号を読んでくれたら、その枝だけ指す。触るのは後だ」

ロカは頷き、導線へ手を伸ばさずに構えた。ヴェスパーは負傷した腕をかばいながら、記録板を見やすい位置に置く。彼は何も言わない。ただ、次の信号を待つために目を閉じず、ノエミの作業を見守っていた。

第一の番号。発進補助系。

第二の番号。係留鎖の制御系。外す。

第三の番号。古い記録機構への中継。

ノエミは三つの合図の順序と照らし、星図の方位を重ねた。ロカの指が、彼女の読み上げた番号に合わせて枝を追う。ヴェスパーが分けた封印側の導線は、もう候補に入らない。

一つ、残った。

三つの合図すべてが通り、封印を避け、失踪後の通信記録へ続く共通枝。

「これだ」

ノエミはその枝を指した。

「中枢を動かす者が誰かは、まだ分からない。だが次に確認する場所は定まった。信号の続きは、この方角にある」

彼女は声を抑えたまま言ったが、迷いはもう薄かった。船内の記録と導線だけでは、信号の先をすべて解くことはできない。けれど、向かう根拠は揃った。

ロカは操舵席へ向かい、使い込んだ操舵手袋をはめた。革の擦れた指先が舵を確かめる。

「ヴェスパー、記録板を構えとけ。ノエミ、危ない航路が見えたらすぐ言え。硝子星帯まで船を持っていく」

「共通枝の方角を保て。反射光で航路を誤るな」

「承知しました。信号の変化を順に記録します」

ロカが舵を押すと、アルシオンの奥で眠っていた機関が低く応じた。係留鎖は触れずに残し、船首だけがゆっくりと港の外へ向きを変える。かつて帝国に奪われた船が、自らの古い導線に従って動き出した。

窓の向こうには、硝子星帯が広がっていた。砕けた小惑星の群れが遠い光を反射し、無数の刃のように瞬く危険な宙域だ。

ノエミは星図を抱え、反射の間に残る航路を探した。怖さが消えたわけではない。船内で誰かが中枢を操作しているかもしれないという疑いも、第四の魔女の符号が残る理由も、まだ答えを持たない。

それでも、信号は船内で始まり、船の外へ続いている。

アルシオンは硝子星帯へ進んだ。