第21話 崩れる王城
天井の割れ目から落ちる黒雨が、崩れた肖像の顔を一つずつ黒く塗り潰していた。
誓剣の回廊は、もう回廊の形を保っていない。床石には長いひびが走り、その下では貯水槽からあふれた水と灰が、暗い城の腹の底で唸っている。壁を割って這う銀色の制御線の先では、かつての近衛を模した像が、鈍い石の首をこちらへ向けていた。
その向こうに、尖塔の扉がある。
帳面ほどもある鍵穴が、雨の向こうで口を開けていた。
リゼットは銀灰の長剣を低く構え、床の裂け目と像の足元を交互に見た。怖くないわけではない。黒雨に濡れた石は見た目より脆い。さっきまでの道で身体に残った痛みも、踏み出すたびに思い出させてくる。
けれど、ここで立ち尽くせば、像が動く時間を相手に渡すだけだった。
「ガルド、まず梁と床を見て。近衛像の動きも読めたら、私が先に渡って危険なところを確かめる」
背後で、エドガーが厚手の上着の内側へ記録帳を押し込んだ。眼鏡の縁に黒雨の雫がついている。彼は拭う暇も惜しんで、落ちてくる雨筋と床石の並びを見比べた。
「一つ目は、記録を濡らさない位置を選ぶことです。ガルドさん、像が動く間隔と梁の耐え方を見てください。二つ目に、渡る順を決めましょう」
ガルドは答えなかった。
彼は丸盾を前に出し、肩幅の広い身体を低くして、崩れた肖像台のそばまで進んだ。短く刈った髪を黒雨が濡らす。視線は床のひび、石粉の溜まり方、壁際の梁の継ぎ目を順に追っている。
ミアも何も言わず、腰の薬草袋を手で覆ったまま、床際へ目を落としていた。黒雨が流れ込む筋と、灰が寄せられる向き。彼女は人の顔より先に、そうした小さなものを見る。
リゼットは像の前へ出た。剣先を向けるだけで、まだ斬らない。制御線は像の背から石の関節へ入り込み、細く脈打っている。触れれば、何が起きるか分からない。
ガルドが片足を肖像台の端へ置いた。
台座は耐えたように見えた。
次の瞬間、黒雨が強く落ちた。水を含んだ石の内側で鈍い音が鳴り、台座の縁が、足の下から抜けた。
「下がって!」
リゼットが叫ぶより早く、ガルドが腕を伸ばしてエドガーの肩を押し戻した。床が斜めに沈む。肖像の胴が砕け、その破片が回廊の一部を巻き込んで落ちていった。
ガルドは崩れた床の端へ踏み込み、倒れかけた石を肩と盾で押し返した。無理な姿勢だった。石が止まったあとも、彼はすぐに身体を起こせなかった。
黒い深みから、遅れて破片の落ちる音がした。
リゼットは剣を構えたまま、呼吸を詰めた。像がそれに反応し、石の腕を持ち上げる。彼女は一歩前へ出て剣を振り、銀灰をまとった刃で像の手首を打った。完全には砕かず、向きを逸らす。石の指が床を抉った。
ガルドがようやく身を引いたとき、その動きはわずかに重かった。
「問題ない」
低い声は短かったが、リゼットには、その言葉だけで済ませる時の癖だと分かった。
崩れた場所を前に、同じ見方を繰り返す気にはなれなかった。一度読み違えた足場は、次に正しく読めるとは限らない。黒雨は石の中身まで変えていく。
エドガーが息を整え、帳面を取り出した。濡れていない頁を開き、黒雨が切れる間を数えるように視線を走らせる。
「ガルドさん。同じ順で確かめるのは危険です。一つ目は黒雨の落下間隔です。二つ目は像を動かさず、台座越しに梁を見ましょう。縄を結ぶ場所だけを決められませんか」
「梁を見るだけなら俺がやる」
ガルドは手の甲で石粉を払った。
「像には触るな。リゼットは動きを見ろ」
リゼットは彼の肩の張りを見た。止めたかった。さっき、身体を張ったのを見ている。だが、今の彼から役目を取り上げれば、かえって足場の判断を急がせるかもしれない。
「ガルド、像が動いたら無理に支えず退いて。私が前で引きつける。合図が出るまで、触らないで」
彼は短く頷いた。
ミアは台座から少し離れた床にしゃがみ、灰の流れを見たまま動かなかった。彼女が口を挟まないのは、何も見ていないからではない。今は余計な一歩のほうが危ないと、彼女なりに測っているのだろうとリゼットは思った。
今度は、誰も崩れた箇所へ重みを預けなかった。
エドガーが帳面に雨の切れ目を記し、雨脚が細まるたびに指先で合図する。リゼットは像の視線を剣先で受け、石の足が動くごとに、その前へ立ち位置を変えた。ガルドは肖像台そのものではなく、その向こうに残った壁際の梁を見た。台座の陰から梁の付け根へ目をやり、落ちた石の形から、まだ生きている部分を拾っていく。
長くはかからなかった。
「道は一本だ」
ガルドが言った。
彼の指が示したのは、崩れた肖像台の上を経て、壁際の梁へ届く細い道だった。
「像を倒す必要はない。ここを足場にして、梁へ縄を渡す。順に行ける」
彼は一度、落ちた回廊の縁を見た。
「ただし、最後の一人は支えることになる」
最後尾を引き受ける役目が、急に輪郭を持った。
リゼットはそれを聞き、剣の柄を握り直した。尖塔へ進む道はあった。けれど道があることと、誰も失わずに渡れることは、別の話だった。
ガルドが麻縄を壁際の梁へ回した。
傷だらけの手で結び目を締めると、縄は黒雨を受けて重く垂れた。それでも、落ちた回廊の上に一本の細い線を作った。先に進むための線であり、帰るための線でもある。
近衛像が、石の脚を引きずって動いた。
制御線が銀色に明滅するたび、像の関節がぎこちなく曲がる。正面から倒せば床まで壊れる。ガルドの見立てどおり、相手にするべきは像そのものではなかった。
「リゼット、線を断て。俺が像を押さえる」
ガルドは丸盾を構え、像の進路へ身体を差し入れた。
「エドガー、ミア、縄を持って梁へ行け」
「分かった」
リゼットは返した。
胸の奥に冷たいものが残っている。像の顔には、かつて王に仕えた近衛の面影があった。自分が覚えていない百年前が、石の輪郭にだけ勝手に現れている気がしてならない。
だが、考えるのはあとだ。
彼女は像の横へ回った。ガルドの盾に石の腕が打ちつけられ、鈍い衝撃が響く。ガルドは足を踏ん張った。像がもう一度腕を振り上げる。その隙へ、リゼットは踏み込んだ。
銀灰の長剣が、壁から像の背へ伸びる制御線を薙いだ。
火花ではなく、冷たい灰が散った。
切れかけた線が暴れ、彼女の腕に絡みつく。
――王。
声は耳から聞こえなかった。
剣を持つ腕の骨の内側へ、百年前の残響が直接触れてくる。王を守れ。守るために剣を取れ。おまえは、そのためにいる。
一瞬だけ、リゼットの前から回廊が遠のいた。
知らないはずの広間。血ではなく灰をかぶった王の横顔。差し出した自分の手。守らなければならない、という願いだけが、誰のものだったのかも曖昧なまま胸へ押しつけられる。
制御線は、その願いを知っているように彼女を引いた。
王を守れと呼ばれることが、怖かった。
自分が何者だったのかを知りたくて、ここまで来た。けれど、過去がただ命令として戻ってくるなら、それは答えではない。今ここにいる三人を、過去のために危険へ押し出す理由にもならない。
リゼットは歯を食いしばり、剣の柄を握り直した。
「違う」
声は低く、短かった。
「私が守るのは、あの王じゃない」
ガルドが像を受け止めている。エドガーは濡らさないよう記録帳を抱え、縄のそばで次の動きを待っている。ミアは梁の先を見て、黒雨と灰の筋を逃さない。
ここにいる三人と、その先に残る未来。
それが、彼女の剣を動かす。
リゼットは絡んだ制御線ごと刃を押し込んだ。銀の線が断ち切られ、像の膝が砕けた。崩れ落ちる石をガルドが盾で逸らす。だが、切れた線の端が鞭のように跳ね、リゼットの腕を打った。
鋭い痛みが、肘から肩へ走る。
剣を落としかけたが、落とさなかった。
像は片膝をつき、動きを止めた。
その向こうへ、ミアが静かに進んだ。彼女は尖塔の扉の前で腰を落とし、薬草袋から取り出した粉を、帳面ほどの鍵穴の縁へごく薄く散らした。
「エドガー、古文を読んで。私は灰の筋を確かめる」
エドガーは頷き、眼鏡を押し上げた。扉の文字を追う彼の指先には、いつものようにインクが染みついている。だが頁をめくる手は慎重だった。黒雨が一滴でも帳面へ届けば、文字の列は失われる。
リゼットは腕の痛みを押し込め、二人の横へ立った。
扉には、武器の形も王家の紋章もなかった。刻まれていたのは細い文字の列だった。誰が王を殺したのか。何を知ったのか。その知ったことを、次に何として残すのか。
読み終えたエドガーの顔色が、さらに白くなった。
「この扉は、記録を求めています」
彼は鍵穴と、自分の腕に抱えた帳面を見比べた。
「記録帳には、開く資格があります。ただ……推測ですが、鍵として差し入れれば、黒雨に溶けて戻らない可能性があります」
ミアの散らした粉が、鍵穴の縁で黒く沈んだ。彼女は顔を上げず、短く言った。
「扉。帳面を食べる」
その直後、回廊の最後に残った梁が大きく軋んだ。
縄が揺れ、止まっていた近衛像の背から、まだ生き残った制御線が細く鳴る。
扉の前までは、もう少しだった。だが、そこへ渡れる時間はわずかしかない。
帳面の一部を鍵穴へ入れれば、扉は防衛像を止める命令を流し、全員が安全に通れる。代わりに、百年前から集めてきた記録の原本は消える。
帳面を守るなら、傷ついた腕でリゼットが制御線を断ち、ガルドが崩れかけた梁を支えている間に渡るしかない。
真実を残すことと、全員を安全に通すこと。その二つは、ここでは並べて持てなかった。
梁の裂け目が、黒雨を飲み込むように少しずつ広がっていく。
リゼットは扉を見た。次にエドガーの記録帳を見た。分厚い帳面は、彼が王国の最後を拾い集めてきた形そのものだった。法廷の灰に溶けた銀板の代わりに、残すべきものがまだここにある。これまでに分かったことを、誰かの都合のいい話へ変えさせないための、ほとんど唯一のものだった。
それを失えば、尖塔の奥まで辿り着けたとしても、何を終わらせ、何を次へ渡すのかが曖昧になる。
リゼットは腕の痛みを確かめるように指を曲げた。動く。痛むだけだ。まだ剣は握れる。
仲間の異論を聞くべきだと分かっていたから、彼女は急がず口を開いた。
「エドガー、帳面を守ろう。私が制御線を断つ。ガルドは梁を支えて。ミアは先に渡ってね」
ミアは鍵穴のそばに残った灰を指先でなぞった。その目は、黒雨に濡れた石ではなく、灰の流れが向かう先を追っている。
「灰の筋。帳面を失えば、あとで根へ還す記録も消える」
彼女は顔を上げた。
「私が先に渡る。リゼット、無理なら合図して」
エドガーは帳面を強く抱えた。
「……帳面を失えば、王国の最後を証すものまで消えます。私が残します、リゼットさん。先に渡ってください」
その言葉を聞いたとき、リゼットは少しだけ目を伏せた。
残ると言うエドガーは、重い石を支える役には向かない。彼自身もそれを分かっているからこそ、帳面とともに残ると言ったのだろう。帳面を守る役を誰かに任せるのではなく、自分で引き受けようとしている。
けれど、最後尾は危険を受ける。
リゼットは首を横に振った。
「エドガー、帳面を抱えて先に行って。ミア、その後ろへ。ガルド、梁を支えて。私が最後に渡る」
ガルドは返事をしなかった。丸盾を脇へ押しつけ、梁の下へ身を入れた。彼の足元で石が砕ける。
リゼットは前へ出た。
断ち切ったはずの制御線が、像の砕けた胴から這い出している。長剣を持つ腕はまだ熱を持ち、さっき打たれた場所が脈に合わせて痛んだ。だが、迷いを口に出す時間はない。
「行って」
ミアが縄へ手をかけた。小柄な身体を梁へ預け、黒雨の切れ目を選んで渡っていく。彼女は余計な音を立てず、先に扉の前へ着くと振り返った。
次にエドガーが進んだ。
帳面を胸へ抱えた彼の足元で、石が一枚、端から欠ける。彼は息を呑んだが、帳面を手放さなかった。縄を握り直し、ミアの待つ側へ渡り切る。
その間、ガルドが梁を支えていた。
肩と背に力を入れ、落ちようとする石の重みを受けている。鎖帷子が擦れ、足元の石粉が沈む。彼は一度もリゼットを見なかった。見れば早く行けと言いたくなる。そうしないために、梁だけを見ているようだった。
リゼットの番になった。
制御線が動く。
彼女は剣を振った。一本を断つ。次の一本が腕へ絡む。痛みが深く刺さり、身体が半歩遅れた。
足元の石が崩れた。
縄へ手を伸ばすより早く、身体が沈む。
「リゼット!」
ガルドの声が響いた。
彼は梁を支えた姿勢のまま、もう片方の腕を伸ばした。リゼットの外套の端を掴み、落下を止める。裂け目の下から黒雨混じりの風が吹き上げた。
リゼットは剣を石へ突き立て、残る手で縄を掴んだ。腕の痛みで指が開きそうになる。それでも、ガルドの手と縄の張りに引かれ、崩れた縁へ胸を打ちつけながら這い上がった。
制御線の反動が、腕の傷をさらに深くした。
息が詰まり、視界が白くなる。
だが、帳面はエドガーの腕にある。ミアは扉の前にいる。ガルドも、まだ梁を離れていない。
リゼットは剣を抜き、最後に残った線を断った。
石の梁が崩れた。
ガルドは身を引き、丸盾で飛んだ破片を受け流した。リゼットは縄を伝って、彼とともに扉の側へ渡る。着地した途端に膝が折れた。
すぐ横から、支える手が伸びた。
ガルドだった。
彼女はその支えを振りほどかなかった。腕も脇腹も、もう意地だけで隠せる痛みではない。仲間の重みを受けるのと同じように、今は自分も受けるしかなかった。
「……行こう」
謝る代わりに、リゼットはそう言った。
砕ける近衛像と、回廊が沈んでいく音を背に、四人は尖塔の扉の前へ集まった。
黒雨はまだ降っている。だが扉の前だけは、雨粒が何かを避けるように細く流れていた。帳面ほどの鍵穴が、エドガーの腕に抱えられた記録帳へ向けて、かすかな光を放っている。
帳面は残った。
その代わり、リゼットの腕には新しい痛みが残った。彼女は剣を持ったまま立っていたが、ガルドの支えが離れると、足元が少し揺れた。彼は何も言わず、すぐ横に立ち続けた。
ミアは扉の下へ流れ込む灰を見ていた。さっきまで細い筋だったものが、扉の隙間で溜まり、形を探している。膝、腕、顔。人の姿になろうとする黒雨の揺らぎが、その奥でゆっくりと膨らんでいた。
エドガーは帳面を見下ろし、それから全員を順に確かめた。彼の眼鏡にはまだ黒い雫が残っている。
「一つ目は、全員がそろっていることです。二つ目は、リゼットさんの歩調です」
帳面を抱く手は強い。
「急ぎますが、四人一緒に尖塔へ進みましょう」
リゼットは、扉の向こうで形になりかける黒雨から目を離さなかった。
過去はまだ、答えをくれるどころか自分を呼び戻そうとしている。けれど、彼女が守るものはもう選んだ。剣を持つ腕が痛んでも、残した記録と、ここにいる三人を置いてはいかない。
鍵穴の光が、エドガーの記録帳を待っていた。