第15話 昨日の死者

排水弁の狭い通路を抜けた途端、ガルドの頬に冷たい風が当たった。

崩落した大広間の、墓標の背後だった。割れた天井から落ちるはずの黒雨は、黒い糸を逆に引かれるように上へ吸い上げられている。石の間を通るたび、濡れた鉄のような匂いが鼻についた。

正面には四基の墓標が並んでいた。どれにも、昨日の日付が刻まれている。初めて見たときより石の唸りは低く、足裏まで震えを伝えてきた。

ガルドは丸盾を前に出し、先に台座の周りを見た。崩れかけた石床。壁際へ抜ける細い道。もし何かが沈んでも、三人を通せる幅はある。だが墓標のすぐ下は、長く立つ場所ではなさそうだった。

「ミア、足元と退路を見ろ。エドガー、照合は頼む。石を動かすなら、俺が先に支える」

ミアはすぐにしゃがみ込んだ。膝に土のついた旅装が、湿った石に触れる。彼女は台座の隙間へ顔を近づけ、指を入れずに中を覗いた。

「隙間。ここから見る。触る前に、銀灰と土の位置を記録して」

エドガーは返事の代わりに、厚手の上着の内側から記録帳を出した。落ちる雨を避け、墓標の文字と、すでに手元にある碑文の記録を何度も見比べる。眼鏡の奥の視線が、日付の並びに留まったまま動かない。

リゼットは少し離れて立っていた。短い黒髪に湿気がまとわりつき、彼女は銀灰の長剣の柄を握ったまま、墓標と台座を見ている。顔に覚えはなくとも、自分たちが互いの名を呼び合えるだけのものは残っている。その残り方が、今はかえって不気味だった。

ガルドは石の前に膝をついた。昨日という日付は、新しい死者を急いで葬った印に見えた。だが、エドガーの筆先が止まったことで、その見方は崩れた。

「一つ目、日付です」

エドガーは慎重に言った。

「墓標の刻みは埋葬日の形式ではありません。石の下で銀灰が熱を持ち始めた時刻を示す記録と一致します」

ガルドは台座の縁に手を置いた。石は冷えているのに、隙間から滲む銀灰だけが鈍く熱を返していた。ミアが小さくうなずく。

「銀灰。下から出てる。土は上に積もっただけ」

ならば、石は土に埋められた墓ではない。ガルドは力を込めすぎないよう注意しながら、台座の脇に残った亀裂を広げた。重い石がわずかにずれ、その下の形が覗く。

人が横たわるための穴だった。

一つではない。四つある。

石の下には、繭のように丸みを帯びた空洞が並んでいた。肩の位置、腰の幅、膝の曲がるあたりまで、あまりに人の身体へ寄せて掘られている。ガルドは自分の目で確かめてから、隣の空洞へ視線を移した。

大柄な身体が入る穴。細身の身体に合う穴。小柄な身体を包む穴。もう一つは、背筋をまっすぐにして眠る者を想像させる形だった。

墓標ではない。

死者を隠す場所ではなく、何かを形作り、外へ出すための場所だ。

ガルドの古傷が、鎖帷子の下でじくりと疼いた。記憶そのものが戻ったわけではない。ただ、石の下に何があるのかを確かめたい気持ちと、確かめれば三人まで傷つけるかもしれない恐れが、同じくらい強くなった。

エドガーが、墓標の文字を見つめたまま息を吐く。

「仮の墓標だったのかもしれません。百年前の死者を葬ったと見せるための。推測ですが、ここで行われたのは再生の儀式です」

昨日という字が、石の上で黒雨を弾いている。

昨日、四人はここにいた。

死者としてではなく、銀灰の熱の中から、いまの身体を得るために。ガルドはその結論を口に出さなかった。まだ石の下に手を入れていない。だが、仲間を先に危険へ進ませる気もなかった。

「開けるなら、俺が支える」

低い唸りを返す四基の石の前で、彼はもう一度だけ退路を確かめた。

台座の石を持ち上げる前に、ミアは隙間の縁を見回した。銀灰の流れ、湿った土の重なり、薬草の繊維に似た細い残り香まで、彼女は目を細めて拾っていく。やがて彼女は空洞の口へ手を伸ばし、短く告げた。

「空洞を開く。中を確かめよう」

ガルドは台座の下へ肩を入れた。鎖帷子が石の縁に擦れる。落とせば中のものも、周りの足場も潰す。彼は盾を脇へ寄せ、両手で重みを受けた。

「リゼット、継ぎ目だ」

「分かった」

リゼットは長剣を石板の継ぎ目へ差し入れた。剣身に宿る銀灰が、石の奥の滲みと触れ合って淡く揺れる。彼女が柄を押し、ガルドが台座を受け止める。石板は長い眠りから起こされるように、鈍い音を立てて開いた。

中にあったのは、四つの殻だった。

銀灰が人の形を保ったまま乾き、空になっている。骨とも布とも違う、薄い殻。指で強く押せば崩れそうなのに、それぞれの内側だけが、妙に生々しく残っていた。

ガルドは自分の目を疑った。

一つの殻の脇腹には、彼が鎖帷子の下に隠しているのと同じ古傷の形があった。別の殻にはリゼットの剣が残した傷らしい裂け目があり、もう一つにはエドガーの指先と同じように黒い染みがついている。最後の殻の周りには、ミアの腰の薬草袋から漂う匂いと同じ香りが残っていた。

ミアは殻の上で指を止めた。触れはしない。

「薬草。私の袋と同じ匂い」

エドガーは帳面を抱え直し、殻を一つずつ見た。インクの染みを持つ手を見下ろし、それから空の輪郭へ視線を戻す。

「観察できる事実は、四つの殻に私たちの身体の特徴が残っていることです。さらに、ここは昨日、四人の身体が形作られた場所だったと考えるのが自然です」

彼はそこで一度、言葉を選んだ。

「記憶については、推測になります。しかし銀灰が写したのは、身体だけではないのでしょう。死の直前までに持っていた記憶も、写し取られている」

ガルドは殻を見つめた。百年前に滅びた王国。昨日、目覚めた自分たち。間にあるはずの時間は、空洞の底に埋められたように見えた。

けれど、殻の内側にある古傷は、ただの印ではないように思えた。痛みを知っている身体が、痛みのあった形を残している。あの傷を負った瞬間を思い出せなくても、ガルドが石を支えるときに右肩をかばうことまで、誰かが命じた動きには思えなかった。

リゼットが墓標の裏へ回った。彼女は携えていた碑文の写しを広げ、石の側面に残る浅い刻みと照らし合わせる。最初は黒雨に濡れたただの石肌に見えた箇所へ、剣の銀灰が薄く反応した。

文字が浮かんだ。

四種類の筆致だった。急いで刻んだような線もあれば、深く彫り込んだ線もある。それでも文章は一つにつながっていた。

『冠を継ぐな。われらの死を、次の一人の死へ渡すな』

大広間の唸りが、いっとき遠のいた。

リゼットは文字を読み終え、剣の柄を握り直した。彼女の声は低かったが、石よりはずっと生きていた。

「エドガー、事実と推測を分けて話して。ガルド、ミア、戻った記憶と、今ここで選びたいことを聞かせて。私も話す」

ガルドは答えるまで少し間を置いた。戻った記憶、と言われても、掌に乗せられるほど確かなものはない。けれど、わからないからといって、仲間を置き去りにする理由にもならなかった。

「記憶は曖昧だ。だが、今の俺は、お前らを守る。これは俺が決める」

ミアは殻と、天井へ逆流していく黒雨を順に見た。

「黒雨を止めたい。手掛かりがここにあるなら、進む」

リゼットはうなずいた。自分のことを話す前、彼女は三人の声を最後まで待った。

「私も、昨日作られた身体かもしれない。でも、これから選ぶことまで誰かのものにはしない。怖くても、私たちで決めよう」

エドガーは帳面を開いたまま、浮かんだ共同の警告を見た。

「結論を一つ、記します。再生されたから偽物、とは言えません。私たちは過去をそのまま演じるための器ではない。死の直前までの記憶と意志を受け取り、ここで別に選んでいる本人です」

ガルドは、その言葉にすぐ返せなかった。

本人だと言い切るには、失ったものが多すぎる。だが、目の前で石を持ち上げた腕も、逃げ道を測った目も、仲間の声を聞いて退くか進むかを決める気持ちも、確かに自分のものだった。

そのとき、足元で石が鳴った。

最初は小さな、砂のこぼれる音だった。次に、四つの殻の下で床が沈んだ。墓標を支えていた石床が、中央からゆっくり割れ始める。

「下がれ」

ガルドは声を上げ、台座の側へ身体を寄せた。裂け目の奥は暗い。殻と、裏面に現れた刻印を、まとめて呑み込もうとしている。

殻を引き上げるなら、崩れる床を誰かが押さえなければならない。石を支えれば、支える者が無事では済まない。刻印だけを写し、全員で退くなら、生きて出られるかもしれない。その代わり、四人が昨日ここで形作られたという直接の証は、穴の底へ消える。

ガルドは殻の中の自分の傷を見た。

欲しかった。自分たちが何だったのかを、否定できない形で残すものが。

だが、そのために三人を危ない場所へ置くことはできない。石床は、返事を待たずにまた沈んだ。

裂け目が広がり、殻の縁へ灰色の粉がこぼれ始めた。

エドガーは一歩だけ後ろへ下がった。帳面を胸元で押さえ、崩れる石と共同の警告を見比べる。彼の細い指は震えていたが、筆記具を落とさなかった。

「一つ目は、記録帳と碑文の写しへ警告を写します」

エドガーの声は、急ぐほど丁寧になった。

「殻を失っても、私たちが今ここで生きる選択は残せます。リゼットさん、急ぎましょう」

リゼットは穴の中の殻を見た。彼女自身の剣傷が残る、空の輪郭。ほんの一瞬、長剣を握る指が強くなる。過去を知るためなら怖い道にも踏み込む彼女が、今度は別の道を選ぼうとしている。

「エドガー、写して。殻より、今いる四人を失いたくない。ガルド、退路を開けて」

名前を呼ばれた途端、ガルドは動いた。

「分かった」

彼は中央から離れた石を蹴って確かめ、壁際へ抜ける細い道の崩れかけた瓦礫を押し退けた。肩へ重みが食い込む。古傷が痛んだが、問題ない。通れる幅さえ作ればいい。

ミアは穴のそばから退きながら、一度だけ薬草の香りが残る殻へ目を向けた。伸ばしかけた手を止める。そのまま言葉はなく、沈む足場の端を見て、三人の立つ場所を確かめた。

エドガーは墓標の裏面へ身を寄せた。リゼットが掲げる携帯灯の光を受け、彼は警告を写し取る。帳面へ一行。リゼットの碑文の写しへ一行。崩落の振動で紙が跳ねるたび、彼は腕で覆った。

『冠を継ぐな。われらの死を、次の一人の死へ渡すな』

最後の字を書き終えた瞬間、床が大きく傾いた。

「終わりました。退きましょう」

「来い」

ガルドは退路の入口で振り返った。リゼットが先にエドガーを通し、彼女はその後ろへ回る。ミアは沈む石を避けて軽く足を運んだ。誰かが穴へ落ちるより早く、四人は壁際の通路へ飛び込んだ。

直後、大広間の床が轟いた。

割れ目が口を開き、台座の下にあった四つの銀灰の殻を呑み込んでいく。ガルドは退路の石壁に手をつき、崩れる先を見た。古傷の形。剣傷。インクの染み。薬草の香り。

それらは灰の粉を散らしながら、深い暗がりへ沈んだ。

手を伸ばしても届かない。

再生を直接示す物証は、失われた。

胸の奥に、悔しさが残った。あれがあれば、自分たちは何者なのかを誰にでも示せたかもしれない。自分自身へも、疑う余地なく示せたかもしれない。

けれど、エドガーの帳面は無事だった。リゼットの碑文の写しも、彼女の手の中に残っている。石から失われた言葉は、二枚の紙に移されていた。

崩落が収まり、黒雨の逆流する音だけが戻ってくる。

エドガーは帳面を濡れない位置へ抱え込み、短く息をついた。リゼットは何も言わず、通路の奥を見た。ミアは足元から順に、誰も取り残されていないことを確かめる。

ガルドも三人を見た。殻は失った。だが、今いる三人まで失う気はなかった。

証拠を取るか、生きて進むか。その二つが両立しない場所で、彼らは後者を選んだ。

床の沈む轟きが遠ざかったあとも、共同の警告はガルドの胸に残っていた。

冠を継ぐな。

次の一人の死へ渡すな。

鐘守が求めていた冠の継承と、百年前の自分たちが石へ残してまで拒んだものは、同じなのだろう。王の命令を誰か一人の身体へ押し込み、その者が死ねばまた次へ渡す。その仕組みを、彼らはかつて知っていた。だから死の間際に、未来の自分たちへ警告を残した。

確かな記憶はない。それでも、今の四人が拒む理由には足りた。

大広間から続く道は、崩れた柱の間を抜け、地下の冷えた空気へつながっていた。その先には灰冠王の霊廟がある。石棺のそばなら、王アステル自身が何を遺したのか、なぜ四人へ欠片を分けたのかを確かめられるかもしれない。

ガルドは先に瓦礫を見て、靴先で安定を確かめた。通路は暗いが、足場は持つ。後ろにはリゼット、エドガー、ミアがいる。帳面も、碑文の写しも、失った殻の代わりに抱えていく言葉もある。

彼は振り返った。

「行くぞ。足元を見ろ。遅れるな」

四人は揃って、灰冠王の霊廟へ向かった。