第12話 近衛の誓い
黒雨の反射を受けた歴代近衛の肖像が、回廊の高い壁から四人を見下ろしていた。石の頬を伝う黒い筋は涙にも見えたが、ミアは顔を上げなかった。見たいのは濡れた石ではなく、台座の刻み目だった。
リゼットの銀灰の長剣が、その溝にぴたりと収まっている。剣身から伝わる低い震えが、床の下まで続いているようだった。
そのとき、並ぶ像の一体が首を上げた。石の関節が擦れ、乾いた声が回廊へ落ちる。
「隊長。王を守る誓いを、もう一度選べ」
呼ばれたリゼットは動かなかった。短い黒髪の下で、彼女の視線だけが像の剣へ向いた。怖れていないわけではない、とミアには分かった。剣の柄を握る手が、わずかに強くなっていた。
ミアは台座の縁に指を置いた。冷たい。灰が肌へまとわりつくような冷たさだった。銘板の文字を追い、肖像の足元に刻まれた紋章を見る。年代記の余白に残っていた印と、同じ形だった。
「銘板。余白の紋章と照合して」
ミアが言うと、エドガーはすぐ記録帳を抱え直した。厚手の上着の内側から筆記具を出し、濡れないよう身を寄せる。
「承知しました。一つ目は銘板の文言、二つ目は紋章の位置を記します。誓文の順序に食い違いがあれば、リゼットさんの記憶を呼ぶ手掛かりになるかもしれません」
「リゼット。像の姿勢と剣を見て。順序を確かめよう」
「分かった」
彼女は答え、台座から剣を抜かなかったまま、一体ずつ像の前へ進んだ。守りの姿勢を取る者。剣を身体の前に立てる者。刃を伏せ、誰かを背にかばう者。そして、王座があったらしい空の方へ剣先を向ける者。
ガルドはその少し後ろに立ち、傷だらけの丸盾を低く構えた。彼の目は像ではなく、床の継ぎ目や、崩れかけた壁際を往復している。石が動けば、誰をどちらへ逃がすかを先に決めている目だった。
ミアは銘板の文字を拾った。
最初に刻まれた誓いは、王の命と国を守ること。肖像もその順に、盾となる構えを取っていた。
だが、紋章の位置が異なる像がある。古い銘板の端、意図的に薄く刻まれた二つ目の文。余白に隠されていた印は、その文のそばにだけ置かれていた。
エドガーの筆先が止まる。
「……二つ目の誓文があります。表に掲げるための文ではありません」
リゼットが、王へ向けられた石の剣の前で足を止めた。
「読んで」
「灰冠によって王が人としての判断を失ったとき、近衛は王の命令に従い、その王を止める――そうあります」
黒雨が遠くで石を叩いた。
ミアは銘板を見下ろしたまま、息をゆっくり吐いた。王を守ることと、王を止めることは、正反対ではなかった。前者を最後まで果たすために、後者が隠されていたのだ。
リゼットが王へ刃を向けた記録も、ただの反逆ではない。灰冠に呑まれた王を、人として終わらせるための役目。近衛にだけ預けられた、最後の誓いだった。
ミアはようやくリゼットを見た。顔にはまだ見覚えがない。それでも、彼女があの剣を持つ理由だけは、少し輪郭を得た。
「反逆じゃない。最後の役目だった」
リゼットは返事をしなかった。ただ石像の剣先を見つめ、銀灰の長剣の柄を握り直した。
リゼットは台座の前へ戻った。石像の乾いた呼び声は消えたが、回廊を満たす張り詰めた空気は残っている。ミアには、剣身の震えが先ほどより細かくなったように見えた。
「ミア、エドガー、声を聞かせて」
リゼットは二人を順に呼んだ。最後にガルドへも目を向ける。
「私は最後の型まで進む」
彼女は銀灰の長剣を台座の刻み目へ置いた。剣が石に触れた瞬間、肖像の影が回廊の床へ伸び、かつての近衛が立っているような形を作る。
リゼットは最初の型を踏んだ。守りの構え。剣を外へ向け、背後にいるべき誰かをかばう足運び。
次の型では、刃を受け流した。影の剣が彼女の肩へ落ちるたび、リゼットは身体を開き、払う。第三の型で、彼女は一歩前へ出た。守る者が退くのではなく、危険へ踏み込むための足だった。
ミアは台座の端を見ていた。灰の筋が長剣から石の溝を走り、四方へ分かれている。一本ではない。四つだ。
リゼットが最後の型に移る。王座の方へ向き直り、剣を取る。ためらうように上がった刃が、やがてまっすぐ前を指した。
その瞬間、彼女の呼吸が途切れた。
ミアの目の前で、石の回廊とは違う光景が重なった。王の間。アステル王がいたらしい場所。だが見えたのは、王の顔より先に、彼女の手だった。
その手がリゼットへ剣を取らせる。
次いで、銀灰が四人へ分けられていた。リゼットだけに重さを背負わせないために。王の死後、ひとりへ役目が集まらないように。
冠の欠片は、王をよみがえらせる遺品ではなかった。封じるための材だった。四つに散らしておくための銀灰だった。
影はほどけ、リゼットは現実の床へ片膝をついた。剣を支えにして立ち直る彼女の横顔は、何かを思い出した者のものだった。全部ではない。けれど、刃を向けた一手だけは、もう知らない誰かの行いではなかった。
エドガーは記録帳を開いたまま、像へ向いた。
「近衛として最後に王命を受けたなら、アステル王が私たち四人へ何を託したのか、王自身の言葉に近い形で聞かせてください」
問いは慎重だった。記録を繋ぐための言葉だった。
だが像は首をわずかに傾けただけだった。石の口から出たのは、冠の欠片に触れる警告だけである。四片をなぜ分けたのか。誰が何を託されたのか。その答えは、どこにも続かなかった。
沈黙が落ちた。
エドガーの筆先が紙の上で止まる。ミアは濡れた足元を見た。黒雨の細い流れが、いつの間にか床の溝へ入り込んでいる。待つほど、ここに残ったものが読めなくなる。
ガルドが盾を腕に寄せ、前へ出た。
「リゼット、剣を台座へ戻せ。俺たちは王の代理じゃない。近衛として、最後の命令を聞き出すぞ」
リゼットは彼を見た。
「ガルド、もう剣は戻っている」
低い声だったが、折れてはいない。
「像が黙るなら、私が近衛として問う。アステルが四人に何を託したのか、証言して」
エドガーも一歩近づいた。像の剣先と、台座を走る四本の灰の筋を見比べながら言う。
「像よ、王の代理ではなく、最後の命令を受けた近衛として答えてください。四人へ何を託し、なぜ銀灰を分けたのですか」
ミアは言葉を足さなかった。床の石が、かすかに沈んでいる。台座の周りに走る黒い亀裂。答えを引き出せないまま、足場だけが悪くなる。
像は答えなかった。
代わりに、壁の奥で石が砕けた。
近衛像の一体が剣を抜く。次の一体も。回廊の端から端まで、石の刃が擦れ合う音が広がった。見下ろすだけだった肖像たちが、その視線をリゼットへ集める。
「リゼット、聞け」
ガルドの声が短く飛ぶ。彼は彼女の前へ出た。
「俺は前に立つ。像よ、最後の命令を言え。四人に何を託し、なぜ銀灰を分けた」
石像の群れは、やはり答えなかった。
その代わり、一体の剣先が床を指した。白い根が地下から石を割り、湿り気を帯びた方角へ伸びている。黒雨の流れを制御するという逆雨の尖塔とは、別の方角だった。
別の像の口が、今度ははっきり動いた。
四片を一つへ戻せば、灰冠の形は整う。王が帰る。
けれど、誰が帰るのかは告げなかった。アステル王その人なのか。灰冠が求める新たな器なのか。像はその違いを答えられないまま、剣を構えた。
そして回廊の像すべてが、リゼットに二つの誓いを突きつけた。
王を守る誓いを選べば、防衛像は彼女たちに従う。上階を通る安全な道が開く。その代わり、リゼットは灰冠に最も近い近衛として刻まれる。
王を止める誓いを選べば、最後の命令を守れる。灰冠に従うことを拒める。しかし像は敵となり、回廊は崩れる。リゼットが仲間を逃がすなら、傷を負う。
ミアは石床の裂け目を見た。崩れる先には、まだ読めるかもしれない銘板がある。だが、残すべきものを残すために、手掛かりへ近づけば灰冠の仕組みへ組み込まれる。
小さな違いを拾うために来たのに、今は違いそのものが、道を二つに裂いていた。
像の剣が、いっせいに低く鳴った。
ミアは膝についた土を指先でなぞり、崩れ始めた床を見た。黒雨の筋は台座から伸び、石の割れ目へ吸われている。安全な上階通路を選べば、足場は得られる。だが、リゼットは灰冠へ近い者として残される。
それでは黒雨を止める手掛かりまで、冠の側へ渡してしまうかもしれない。
ミアは顔を上げた。
「リゼット。止める誓いを選んで」
石像の剣先が、彼女の声に合わせるように震えた。
「灰冠へ従えば、黒雨を止める手掛かりまで失うかもしれない」
ガルドも盾を前へ出したまま、うなずいた。
「リゼット。止める誓いだ。灰冠に近づくほど、みんなの記憶まで危ない」
リゼットは二人の言葉を聞き終えるまで動かなかった。エドガーは少し離れた場所で、崩落の気配と記録帳を見比べている。彼の筆は止まっていたが、目だけは石の動きを追っていた。
やがてリゼットは、長剣を抜いた。
「ミア、ガルド。分かった」
彼女の声は低く、短い。
「私は王を止める誓いを選ぶ。灰冠の器にはならない」
それが宣言になった。
像の剣が落ちた。
ガルドが丸盾を掲げ、最初の石刃を受け止める。鈍い音とともに床が揺れた。リゼットは彼の脇を抜け、二本目の剣を銀灰の長剣で逸らす。火花ではなく、灰色の粉が散った。
守る誓いを拒まれた防衛像たちは、守り手ではなく壁になった。石の腕が回廊を塞ぎ、足元の銘板が砕ける。そこに残っていた近衛たちの証言は、読めない破片となって崩落の下へ消えていった。
ミアは退くべき場所を探した。根の方向へ続く石の隙間がある。けれど、その手前の床が沈んだ。
次の揺れで、身体が傾く。
冷たい灰が腕を撫で、息を吸った肺の奥まで重くなった。足を踏み替えようとしても、力がうまく入らない。
「ミア、下がれ!」
ガルドの声が聞こえた。彼が前へ出る。だが、リゼットはさらに前だった。
石像の剣が、崩れる天井を押し落とす。リゼットは迷わずその下へ踏み込み、銀灰の長剣をかざした。落ちてくる石を受け、仲間が通れるだけの隙間を作る。その肩と腕に、石と灰が容赦なくぶつかった。
彼女が傷ついたのを見て、ミアは息を詰めた。自分たちの選んだ誓いが、すぐに彼女の身体へ代価を求めた。
けれどリゼットは退かなかった。剣を支えにして、石の刃を押し返す。
「行って」
短い声だった。
ミアは動こうとした。しかし灰に冷やされた身体が遅れた。崩れた縁で足を滑らせかけた彼女を、仲間の手が支えた。ひとりでは立てなかった。悔しさより先に、支えられた指の確かさが伝わった。
回廊の向こうで、また一枚の銘板が割れた。
失われる文字を全部拾い上げることはできない。近衛が何を見て、何を恐れ、どんな言葉で王へ剣を向けたのか。その証言の一部は、石の下へ埋もれた。
それでも、王の命令を継がせる仕組みは拒んだ。リゼットは灰冠のための器にならなかった。
ミアは支えを借りながら、開いた隙間の向こうを見た。白い根が、濡れた石を押し割っている。そこから吹く風は、黒雨よりも冷たく、地下の水の匂いがした。
石像の剣が収まる音と、崩れた石を踏む音が、しばらく回廊に残った。
ミアは仲間の支えからゆっくり身体を離した。腕の冷えも、胸に残る重さも消えていない。薬草袋は腰にあるが、今は取り出さなかった。先に進めるかどうか、地面を見なければならない。
リゼットがこちらを向いた。傷を負っているのに、背筋は伸びていた。彼女が王を裏切ったのではないことを、ミアはもう知っている。彼女は王を人として終わらせる命令に触れていた。
だからこそ、灰冠に従う道は選ばなかったのだろう。
回廊の奥では、白い根が石を割っていた。根の隙間から湿った風が流れ込み、王根の貯水槽へ続く道を示している。四つに分けられた銀灰が、地下で何を待っているのか。今はそこを確かめるしかない。
リゼットは足元を確かめ、崩れた石へ先に片足を乗せた。
「ミア、エドガー、ガルド。揃って進むよ」
彼女は長剣の切っ先を低く保ち、進む先の石を見た。
「私が先に足場を確かめる」
ミアは白い根の方へ目を向けた。湿った風が、壊れた回廊を抜けてくる。四人はその先、王根の貯水槽へ続く闇へ進んだ。